天つ風 12

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天つ風 12

「こんな時間から、ご飯を炊くなんて、楽しいね」  月光の降り注ぐ庫裏の閉ざされた空間で、翠が朗らかに笑う。  悪戯っ子のような兄の顔は、滅多に拝めない。  いつも長男として背筋を伸ばし、真面目に生きてきた人だから。 「しかし薙は育ち盛りだからよく食べるな。米あんなに炊いたのに殆ど残らなかった。今日はまた一段とよく食べていたな」 「きっと体育祭の練習で、お腹が空いていたのだろうね」 「明日は弁当のご飯の量、倍でと言われたぞ」 「ふふ、どんなリクエストにも応えるのが、僕の流だ」  ひぃー!    翠が俺を持ち上げてくれる。  こりゃ有頂天にもなるぜ。  結局俺は翠が大好きだから、翠を取り巻く全てが好きらしい。  翠が大切にするものは、俺にとっても大切だ。  それに薙は俺の血を色濃く受け継ぐ、俺の子だ。 「流は心が広く優しい……いい男だ」  翠が目を細めて、俺の髪に触れてくれる。 「また伸びたね」 「切った方がいいか」 「いや、このままがいい。似合っている。とても雄々しくて素敵なんだよ」    頬にも手の平で優しく触れてくれる。  まるで自分が小さな子供のようになった気分で照れくさい。  翠にとって大切な存在になれたことを噛みしめる。 「ちょっと、くすぐったいんだが」 「そのまま、じっとしていて」  翠がそっと背伸びして、唇を重ねてくれた。  遠い昔、兄の淡い色の唇を必死に目で追いかけたことなら、いくらでもあった。あの頃の俺は、こんな風に兄から口づけしてくれる日がやって来るなんて夢にも思わなかった。 「……自分からするのは照れるね」 「どうした? 急に?」 「ええっと、おにぎりの握り方の講習代だよ」 「ははっ太っ腹だな。で、やっぱり握る気満々か」 「もちろんだよ。僕の手作りを持たせてやりたいんだ。なぁ流、覚えているか。僕たちの運動会のお弁当」 「あれか、母さんのいびつな爆弾にぎりのことか」 「いびつだなんて……普段は母さんは海苔弁一筋だったけど、運動会だけはおにぎりで、今日は特別なんだなって盛り上がったよ」 「分かる! でも岩みたいにゴツゴツで具が多過ぎだったよな」 「母さん的には、大盤振る舞いだったんだろうね」  翠と軽口を叩きながら、米を研いだ。  幸せだ。  俺たちは二歳差で生まれた時から、思い出もほぼ一緒だ。  幼い日の俺の世界には、いつだって優しい兄がいた。 …… 「りゅーう、おいで」 「にーに、にーに」 ……  兄から差し出される手はいつだって、俺に向けて真っ直ぐだった。  2歳差で丈が生まれたので、一番母の愛情が欲しい時に物足りなさを感じてしまったが、その寂しさをすっぽり埋めてくれたのが、2歳上の兄からの愛情だった。  甘やかしてもらった。  スキンシップも沢山してもらったな。  翠から注がれた愛情のおかげでスクスク大きくなった俺は、これからは翠に愛情を注いでいく。    外からも中からも、翠を愛情で満たしてやりたい。 「あんまり母さんの噂をすると、体育祭に取材だとかいって現れそうで怖いな」 「確かに、母さんは神出鬼没だからね。でも何の取材に?」 「翠は知らない方がいいかもな」 「そうなの? 仏門……はないよね」 「仏門ではないが、寺の三兄弟とか書いていそうだ」 「ふふ、あ、ご飯が炊けたようだね」 「蒸らすから待ってろ」  さてと、どうしたものか。熱々のご飯を握るのは至難の業だぞ。  だが炊きたてのご飯で握るのと格別の味になる。形はしっかりしているのに口の中でほろりと崩れるおにぎりは絶品だからな。  塩を少し入れて炊いたご飯を、手早く切り混ぜる。しゃもじを横から入れてササッとご飯を切って空気を入れるのさ。 「うーん、本当に……これを握るの? とても熱そうだが」 「ご飯の熱が冷めないうちに握るのがコツだ」  氷を入れた冷水ボールを用意して、翠に握り方を教えてやる。  更に浴衣をたすき掛けしてやると、翠がやる気になった。 「やってみるか」 「うん!」  そこまでは良かったが……まぁその後は、しっちゃかめっちゃかだった。  あっという間に、手も顔も、ご飯粒まみれになっていく翠。  あちゃー 洋と同レベルって本当なんだな。 「流、これは無理だ」 「翠、ガンバレ」 「手が熱いよ」 「氷水に浸せ」 「うう……僕は……本当に駄目だ」  翠がしゅんとする。  まずい! そこを上向けるのが俺の仕事だ。 「分かった、分かった。裏技を使おう」 「裏技?」  翠の目が輝く。 「茶碗の中にご飯を入れて、具を入れてご飯をかぶせた後、茶碗の中でコロコロ転がすのさ」 「やってみる」  まるで実験のように、翠が真剣な顔になる。 「出来た!」 「もうそんなに熱くないから、あとは形を整えればいいのさ」 「すごい! 流は天才だ」  いやいや、ごく一般的な裏技だが、翠に褒められるのが嬉しかった。 「流はいつも僕に道を作ってくれる」  大袈裟だと思ったが、全ての面でそうありたいので、嬉しい言葉だった。 「じゃあさ、そろそろ褒美をもらっても?」 「あっ……」  翠の頬についた米粒をペロリ。  そのまま首筋も――ベロリ(ちょっとがっつきすぎか)  朱に染まる兄の身体は、昔は……けっして触れてはいけないものだった。  だが今は違う。 「美味しいな」 「も、もう――」  いちゃついても怒られない。  どんどん俺色に染まってくれる。 「翠、そろそろ移動するか」 「おにぎりを持って行くなんて、遠足みたいだね」  兄の清らかさは、いくつになっても変わらない。  俺たちの間に、実年齢は無意味だ。  
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