天つ風 20

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天つ風 20

「薙は10番目だな」 「うん!」  翠の瞳が明るく輝く。  その表情が嬉しいのに、胸の奥が少しだけ……チクリと痛んだ。    翠は、きっと……ずっと前から、こんな風に息子の運動会や体育祭を見に来たかったはずだ。  離婚してから……翠は必死に強がっていたが、かなり苦しんでいたのを知っている。  夫婦仲が自然にこじれての離婚だったはずなのに、最終的にはその原因を一方的に翠の不貞だと、とんでもない難癖をつけられてしまった口惜しさ。交通事故に遭った場所がたまたま新宿の繁華街で、その直前まで怪しいバーにいたことが発覚し、彩乃さんの怒りを買った。    どうしてあの日、翠がそんな場所に行ったのかは謎だが、ままならない事情があったに決まっている。  だが彩乃さんは容赦なく、翠を遮断した。  そのため翠は息子と自由に会えなくなってしまった。  最愛の息子の存在は、翠にとって不慣れな都会で暮らす唯一のオアシスだったのに――  幼い頃、薙はかなりのパパッ子だった。  俺も離婚前に何度か実家の使いで会ったが、俺にはこっそり教えてくれたんだぜ。 …… 「りゅーくん、なぎね、パパがしゅき、ないちょね」 「おー! そうか、そうか」 「りゅーくんは?」 「俺? あぁ……俺も……好きだ」 「わぁい、いっちょだね」 ……  あー あの頃の薙、可愛かったな。  俺も無邪気な薙の前では、素直になれた。  なのに、少し会わない間に、表情がガラッと変わってしまった。 …… 「どうした?」 「……つまんないの」 「え?」 「ママおこってばかり」 「だれに? 薙、怒られたのか」 「……パパにおこるの」 「え?」 ……  心配だった。  心配で溜らなかった。  だが当時、俺は兄と上手くいってなかったので、心を砕いて聞いてやることが出来なかった。  心のどこかで「俺を捨てて結婚したくせに」とひねくれていた。  あの頃の俺サイテーだ。  ぶん殴ってやりたい。    お前は阿呆か!  翠の何を見て、そんな偉そうなこと、ほざいてんだ!    渇を入れてやりてぇ……  ギリリと奥歯を噛みしめていると、翠に顔を覗き込まれた。 「流、どこへ行く?」 「あ……」 「ここにいろ」 「あぁ」  参ったな。  こういう時の翠は、目が覚めるほど凜々しい。  あの事件は翠に暗い影を落としたが、皮肉なことに……翠の気高さが増すきっかけにもなったのか。翠の中で、あの仄暗い過去を乗り越えて辿り着いた場所だからなのか、翠が放つ気は、はっとする程、研ぎ澄まされている。 「次、薙の番だよ」 「おぅ!」  薙が一気に走り出す。  美しい光線のような走りだった。  ハードルを飛ぶ姿も完璧だ。  ネットを這いつくばって潜り抜けるのにも躊躇いがない。  躊躇わないので、誰よりも早い!  平均台も跳び箱も難なくこなして、今の所、1位で通過だ。  さぁ難関……俺の時代から恒例の『缶ぽっくり』だ。  缶ジュースより少し大きめの空き缶にロープを通し、その上に乗って遊ぶ昔ながらのおもちゃは、竹馬の仲間のようなものだが、難易度は竹馬よりも低い。  まぁ簡単で誰でもすぐに乗れるが、それで歩くのは結構コツがいる。  薙はそれを前に、少しまごついた。  一度ズリッと転げ落ちてしまった。 「あぁ!」    思わず翠が声を上げた。  薙はすぐに起き上がり、もう一度挑戦する。    そうこうしているうちに後ろから来た奴に抜かされてしまった。 「薙ー ガンバレ! 薙はそれに乗ったことがある! 思い出せ」  俺もつい叫んでしまった。  声が届いたのだろうか、薙が一瞬目を瞑り、それから缶ぽっくりを 器用に操って、進み出した。 「薙! がんばれ!」  翠も叫ぶ。  薙の勢いがつく。  最後はフラフープを20回。  薙を追い抜いた生徒は上手く回らず苦戦していた。  ところが薙はすっと立ち、身体に串が刺さったかのようにぶれずに腰を上下に動かした。  フラフープが高速で回り出す。  まるで曲芸を見ているかのような、美しい姿だった。  思わず周囲から歓声が上がる。  高速で20回転をなんなくこなし、1位でゴールを決めた。  翠の笑顔も弾ける。 「流、流、見た? すごかったね。順位なんてと思ったが、我が子の活躍は熱が入ってしまうね」 「いいんじゃないか、それで」 「うん……ありがとう」  俺たちがようやく辿り着いたのは、心が凪ぐ場所だ。  何をしても翠が目の前にいてくれるので、笑顔になれる。  嵐は去った。  俺たちの世界には平穏が訪れている。  
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