月光の岬、光の矢 2

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月光の岬、光の矢 2

 俺は翠さんの横に並んで、心を込めて合掌した。  途端に雨上がりの緑の匂いが、大地から立ちこめる。  俺は遠い昔、この場に項垂れ、故人を偲んだことがある。 虚しさ、寂しさ、愛しい人がいない現実に打ちのめされていた。  ギリリと噛みしめた奥歯、ギュッと堪えた涙。  鼻の奥がツンとする感覚まで、鮮明に思い出せる。  悔恨の情が、寄せては引く波のようにひっきりなしに俺を襲い、切なさで一杯になる。  このままでは、溺れてしまう。  過去の記憶が渦巻く海で必死に藻掻いていると、静寂を打ち破るように笹の葉が揺れた。  あぁ流れを、一気に変える人が来てくれた。 「翠、やはりここにいたな。これを手向けてくれ」 「流、よく分かったね」 「ふふん、そりゃ、俺の翠の香りがしたからさ。お? 洋もいたのか」  作務衣姿の流さんが鼻をクンクンさせて、おどけるように明るくっていた。  燦々と降り注ぐ日の光のような人のお出ましだ。 「流兄さん、おはようございます」  無造作に束ねた紫陽花を担いだ流さんの肩には、雨の滴が転がっていた。  夜のうちに雨が降ったのか。  それとも朝露だろうか。  翠さんは花を受け取ると、たおやかな仕草で、母たちの墓に供えてくれた。  優しい青い花が無機質な墓石に寄り添うと、少女のように儚く可憐だった美しい母の生前の姿が見えるようだった。  翠さんがゆったりとした口調で話しかけてくる。 「洋くん、月影寺の紫陽花には、この少しくすんだ青色が多いと思わないか」 「あ……同じこと、俺も思っていました」 「そうなの?」 「えぇ、俺は、この紫陽花を密かに『月影寺ブルー』と呼んでいました」  ささやかな秘め事を、大切な人と共有したくなった。  こんな風に心の内を見せるのは正直得意ではないが、この兄たちと、もっともっと打ち解けたいと願っているから頑張れる。 「素敵だね。洋くんの言葉にはセンスがあるよ。なぁ、そう思わないか、流」 「あぁ、流石俺の弟だ。手先の器用さは残念なことに似なかったが、頭の良さは俺譲りだな」 「あー コホン、それは僕譲りだと思うけど?」 「ははっ、確かに! 俺は高校で赤点王になったことがあったな」 「流はまったく」 「はははっ、王者には変わりないだろ」  先ほどまでの静寂は良い意味で打ち破られ、明るい日差しが差し込んできた。  流さんが俺を鼓舞してくれる。 「梅雨入りしても、晴れる時は晴れる。生きているとは、いろんなことが降りかかってくるのものだが、案外なんとかなっていくものさ」 「そうですね」  翠さんが俺を頼ってくれる。 「洋くん、申し訳ないが、日中……薙の面倒をみてやっておくれ」 「はい、俺の方こそ任せてもらえて嬉しいです」 「さぁ、それぞれの場所に戻るぞ」  俺たちは来た道を戻る。  翠さんは本堂へ、流さんは寺庭へ。  俺は体育祭で骨折してしまい身動きが上手く取れない薙くんの元へ、様子を見に行くことにした。  今日のように、静かに穏やかに始まる1日が好きだ。  こんな穏やかな時間が愛おしい。 ****  その日の午後、朗報が届いた。 「張矢先生、大変お待たせしました。ようやく外壁の耐震工事が完了し、明日から内装のリフォームに着手出来ます。この度は資材や人員の調達に手間取り、大幅な延期となり申し訳ありませんでした」  職場に掛かってきた電話の相手は、由比ヶ浜の家の耐震リフォーム工事を任せている地元の建築会社の女性だった。    私と洋が住む月影寺の離れのリノベーションを依頼した会社なので、今回の工事も任せることにした。    ちょうど1年ほど前、洋の祖母から譲り受けた由比ヶ浜の家は大正時代に建てられたものだったので、地震に対して既存の建物が耐え得るかを調べる耐震診断をリフォームと共に依頼した。  その結果、大規模な耐震工事が必要だと分かった。  工期がかなり延長してしまうことに一瞬躊躇したが、家を診療所として使うのだから、安全面を優先させよう。  それは洋と私の共通の希望だった。  だから事故や地震があった時の被害を最小限にとどめるための耐震補強工事をすることにした。  しかし、その工期がまさか1年以上かかるとは。  正直驚いたが、私も手術の予約が先まで入っており、そう簡単には大船の病院を辞めることはできなかったので、丁度良かったのかもしれない。  洋を待たせてしまったが……  いや、待ったのは……私の方だ。  今朝、思わず洋に弱音を吐いてしまう程に、私の身体は洋の傍にいたいと望んでいる。 「そんなことは気にしてない。安全が最優先だ。焦って開業して何かあってからでは困る」 「そう仰っていただけて心強いです。引き続き頑張ります」  これで、ようやく進み出す。  リフォーム工事が始まれば、順調にいけば、この秋には開院出来るだろう。  家具類は海里先生時代の物をそのまま利用するが、医療器具は流石に現代の物へと一新せねば。  そして、ついに洋の制服を手配をする時がやってきたのか。  上機嫌で、私は診療室に戻った。
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