月光の岬、光の矢 12

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月光の岬、光の矢 12

 洋の奴、あんなに息を切らして……  意気揚々と離れに戻って行く洋の後ろ姿に、思わず笑みが漏れた。  明るくなったよ、お前は――  電話をかけられる相手がいるのなら、何度でもしたらいい。  大切な人が、この世に生きているのは、奇跡なのだから。  俺なんて……  遠い昔、流水さんは兄であった湖翠さんに何か遺せたのだろうか。  もう二度と会えない覚悟で、愛しい人を置いて家を出るのは、どのような心地だったろう。  地上で一番愛しい人との縁を、自ら断ち切るなんて。 ……  惨い運命だ。  惨すぎる……  まさか丈夫だけが取り柄だった俺が、死の病に蝕まれていたなんて。    湖翠の前で、命果てることだけは避けたい。  そんな惨い映像は絶対に見せたくない。  ならば……姿を消すしかない。  どこかで生きているように希望を抱かせて消えるしかない。  うっ……また胸が締め付けられる。  小さな発作はやがて大きな発作へ。  もう、ここにはいられない。  明日、出奔せねば、    この寺に、俺が生きた証を残そうと思い立ったが、叶わぬようだ。  本当は龍神の石像を、俺の化身として置いていきたかった。    だが、俺には……作る体力も時間もない。  残った体力と気力で、湖翠の中に今宵希望を灯せるかどうかの瀬戸際だ。  幻の龍神よ。    俺を連れて行ってくれ。  再び兄と巡り逢える次の世まで――  その時は、お前を形にしてこの寺に置いてやる。 …… 「流、どうした?」 「翠……」  いつの間にか、翠がすぐ傍に立っていた。    俺としたことが、翠の気配に気づかぬ程、暗い過去に足を突っ込んでいたのか。  翠は美しい顔を曇らせて、心配そうに不安そうに俺の顔を覗き込んできた。  気まずくて、顔を背けてしまった。    こんな不安げな情けない顔は、見せたくない! 「流、どこか具合が悪いのか」 「いや、大丈夫だ」 「だが顔色が悪いよ」    翠には余計な心配をかけたくないし、隠し事もしたくない。 「……実は、過去を思い出していた」 「それは僕たちの前世か」 「あぁ」 「そうだったのか」  翠が表情を緩め、空を仰ぐ。 「空気が湿っているね。こんな日にはまた龍神さまが現れそうだ」 「え? 今……なんと?」 「龍神さまだよ」 「またって……翠は見たことがあるのか」 「いや、ないよ。でも遠い昔に見たと思う」  そうだったのか。  月影寺に残された湖翠さんの前に、龍神が現れたのだろう。  流水さんの無念を乗せて―― 「きっとやってきたのだろう。流水さんの心を乗せて」 「今、ふと蘇った記憶だが……龍神様、この手水の前にやってきたよ。だから湖翠さんは庭の紫陽花を手折って、お供えしたようだ」  また一つ、洋の言葉をきっかけに、遠い昔の悲しい記憶が蘇り、俺たちが今すべきことが明確になった。 「翠、実は洋と約束したばかりなんだ。この手水の石に沿わせるように、石を掘って龍神を生み出すと」 「流……その言葉を僕はずっと待っていたような気がするよ。遠い昔……湖翠さんが来る日も来る日も手水の前で項垂れて、流水を呼んでいた。涙がはらはらと手水に落ちて……この手水は湖翠さんの寂しさで満ちているようだ。だから龍神様を作って慰めてあげよう」  283696aa-78f7-49e3-874d-64446774176a ****  部屋に戻り、もう一度電話をかけた。  今度はすぐに繋がる。 「もしもし?」 「おばあ様、俺です。洋です」 「まぁ、洋ちゃんなの? おばあちゃま、さっき、あなたにお電話したのよ」 「え? 俺もさっきしました」 「まぁ、じゃあ……話し中だったのは?」 「あ……俺たち同じタイミングでかけあっていたのですね」 「くすっ、そうみたい。うふふ、なんだかうれしいわ。気が合う証拠ね」  若々しいおばあ様の弾んだ声に、嬉しくなった。    まるで母と話しているような、不思議な気持ちになっていく。    高揚していく。 「俺はおばあ様の孫なんですね……本当に」 「当たり前よ。あなたは私の可愛い洋ちゃんよ」 「おばあ様……会いに行ってもいいですか。会いたいです」  ようやく素直になれた。 「もちろんよ。いらっしゃい! ずっと待っていたわ」  
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