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これは友人の話だが、どうにもうまく文がまとまらないので小説として書く。だから、フィクションと思ってくれて構わない。この話を俺ひとりでは抱えきれないから書く。
***
面会謝絶中だった友人が無事一般病棟に移ったというので、見舞いに行った。
婦人科系の病気だったと聞いたので少し気後れしたが、暇つぶしを持って来いと言うので彼女の好きな漫画を持って行った。
「よお」
病室の名札を確認するまでもなく、大部屋の中から唯一カーテンの開いたベッドの上で友人が片手を挙げた。思ったより元気そうな姿に安心する。
「ありがたや、ありがたや。やっぱり持つべきものは友だな。家族は先立っちまっていけない」
ミリ単位で笑えないブラックジョークを飛ばしながら揉み手する友人に紙袋ごと漫画を渡す。
「汚すなよ。俺のだから」
「ん? 私んちから持ってきたんじゃないの? あ、鍵渡してないか。ちゃんと鍵締まってんのかね」
「知らねえよ」
そんなことは大家に聞いてくれ。そう言いながらカーテンを閉める。外科病棟だが、女子の大部屋なので少し気まずい。
振り返ると友人は既に漫画を出してニヤニヤ読んでいた。本当に病人かよ。
「元気そうだな」
「ああ、手術はうまくいったし? まあ、子宮はなくなったけど」
言葉を失くすようなことをサラリと言わないでほしい。とりあえず何か言おうとして、友人の様子が違うことに気づいた。
視線は手元の漫画に落ちているが、読んではいない。その証拠に瞳の動きはなく、ページはいつまでも捲られることはない。
男勝りな彼女でも、やっぱり子宮を失うというのはショックな出来事だったのだろう。開けようと緩めた口を閉じ直した。
「……退院したら、引っ越すつもりなんだ」
数分してようやく口を開いた友人はそんなことを言った。
「引っ越し、手伝ってくれ」
「このタイミングってことは、やっぱりあの部屋が原因なんだな?」
俺の問いには答えずに、友人はこちらに背を向けて寝転がった。
***
友人は早くに両親を亡くして、天涯孤独になった。早くと言っても友人が就職してからだったが、就職難の時代で低収入の友人は家を維持できず、生家を手放して引っ越すことになった。
そして、友人が引っ越し先に選んだのは。
「4LDK、トイレ・風呂付きの平屋戸建てで月1.5万円」
「それは……まさか……」
「心理的瑕疵物件だよ」
「なんでよりにもよってソッチなんだよ」
「幽霊よりもボロや犯罪の方が怖いんでね。幽霊が出る鍵のかかる部屋と幽霊は出ないけど鍵がかからない部屋なら前者だろう?」
「いや俺はギリ後者の方がマシ」
「そうか。男は気楽でいいな」
そう言われると黙るしかない。心理的瑕疵=幽霊でもないので、「見にくるか?」と言う誘いにノコノコとついていったのだった。
「いらっしゃい、我が家へ」
色々見て回っていいという許可を得たので遠慮なく見て回る。予想に反してそこそこ明るく、トイレもやや新しい洋式だった。あまり飾り立てないのは友人の趣味だろう。
そのまま流れで風呂を見る。多少の黒カビはあれど、陰気な感じはしない。
「案外、普通なんだな」
「そうだろ?」
客人が来ているにも関わらずソファーでくつろいでいる友人はローテーブルの上に置いた菓子を指して「勝手に食え」と促してきた。スナック菓子をついばみ、喉が渇いたのでキッチンの水道に行くと、シンクの横にある食器カゴに哺乳瓶があった。見回せば近くに粉ミルクの缶もある。
え? 産んだの? いつ?
見てはいけないものを見てしまった。何とも言えない衝撃を受けてふらふらと戻る。何と聞けばいいのかわからず友人を眺めていると、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
ダメだ。あまりの衝撃に幻聴まで……。と思った時、友人は携帯で時間を確認するなり「ああ、はいはい」と立ち上がった。
手慣れた様子で湯を沸かし、哺乳瓶にミルクを作る。
「和室の押入れ開けてくれ」
言われた通り、和室に入ると泣き声が押入れの中から聞こえてきた。
「って、まさかこの中で子供育ててんのか!? ダメだろ! 虐待だぞ!」
哺乳瓶片手にやってきた友人は苦笑いのような、変な顔をしながら押入れを開けた。
2段式の押入れは、空だった。
「えっ」
壁と床にはやや染みが残っている。確かに聞こえていた泣き声はピタリと止んでいた。ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
「ほら、ミルク」
空の押入れに哺乳瓶を立てて置くと、友人は襖を閉めた。泣き声はもうしない。
「2、3時間に1回ミルクやらないと、うるさいんだよな。夜も昼もなく泣くし。家賃は安いけどミルク代がなぁ」
もういつもの調子だった。
「お前、これは、さぁ」
声が震える。これは精神衛生上、よろしくないだろう。いやよろしくないというか、モロにダメだろう。俺の様子を見て、ニヤニヤと笑った友人は洗面所を指して言う。
「顔でも洗えば」
どんな顔をしていたと言うのか。促されるまま水で洗うと、少し落ち着いた。落ち着いて考えてみてもこの物件は絶対駄目だ。さてどう説得しようかと考えつつ顔を上げると、鏡に映った背後の風呂場のドア、モザイクガラスにべたりと男の子どもが貼りついていた。
「ヒギャッ……!!」
止まりかけた心臓を無理矢理動かし友人にしがみついた。
「引っ越せ!! 今! すぐ!!」
「アッハッハッハッハッ」
「笑ってる場合じゃねえよっ!」
「ビックリしたろ? 別に悪いことはしないよ」
「アホッ! 心臓がいくつあっても足りないわ!」
「私は慣ーれたー」
鼻歌混じりにリビングへ帰っていく友人は「何ならいっしょに風呂に入ったりもするぞ」と言う。豪胆ぶりに少し引いた。
「でも、まあ確かに、私以外は住めないだろうな」
そんなことを自信満々に言って、彼女は笑った。
それから約2年して、友人は下半身を血塗れにしながら半ば倒れるようにして家の玄関を出たところを近隣の住民に見つかり、緊急搬送された。
一時は危ない所だったらしいが、無事回復したのだった。
***
『退院した。お前ん家行く』それだけ書いた連絡が来て、数十分後には家に友人は来た。
「入院中に当面の家を契約してあるんだ。転居は明日予定だから、今日は泊めてくれ」
「俺はいいけど、ホテルの方がよくないか?」
「ラブホは1人じゃ入れないだろ」
近隣のホテルはラブホテルなので、そういうことになるらしい。
了承すると、友人は荷物は車の中に入れたまま、貴重品だけ持って俺の家に入った。
少し、気まずい空気が流れる。
お互い何も言わないまま、買い置きの茶を飲んで黙ってしまった。向こうもペットボトルを包み込むように持ったままテーブルを見つめている。
「なあ、言いたくなかったらいいんだけどさ。何があったんだ?」
「…………それを話したくて、来た。他の場所だと、他人の耳があるから」
そして、ポツリポツリと彼女は語り出した。
「あの家な、元は違法風俗店の寮だったんだ。寮とは言っても、実際はタコ部屋だったと聞いてる。特に、妊娠した従業員がさ、中絶するために泊まり込んでた家だったらしいんだよ」
「中絶っつったって、ちゃんとした手術じゃなかったらしくて。モグリが適当にグチャグチャしたり、胎児に影響がある薬をわざと飲んだり、いざ生まれてきちまったらビニール袋に詰めたりして、胎児だったものをあの和室の押入れに詰めてたんだと」
「それで、あの家で私は毎晩、夢を見てたんだ。ほとんど同じ夢。和室で寝てる私を、半分崩れたような赤ん坊たちが囲んでるんだ。その中から1人出てきて、私の腹の上に乗って、ぐずぐず、融けるように私の腹の中に収まるんだ。そうして私は妊娠して、数ヶ月腹の中で育てて、産み落とす。産まれた子は綺麗な赤ん坊で、すぐ光り輝いて、天へ登っていく。それで、一晩」
「妊娠期間は、子によって違うんだけど。毎晩毎晩、必ず私は妊娠して、産んでやるんだ。苦しみながらさ」
「すごくリアルなんだけど、結局は夢だからさ。別に本当にダメージがあるわけじゃないし、育ててやるわけでもない。だから、毎晩産んだんだ。産んでやるくらいなら私だってできるから」
「だって、可哀想じゃあないか。勝手に作られて、生まれる前に殺されるなんてのは。だから一晩に1人産むくらい、やってやろうと」
「だけど、あの日だ。あの日の夢は違ってた。見たことないくらい腹が膨らんでたんだ。双子や三つ子の時でさえ、こんな大きくはなかった。だからさ、周りを見回したんだ。そうしたら、いないんだよ、胎児たちが。あと50人くらいいたはずなのに。事態を飲み込んだ時には、もう子宮が裂けてた」
「最悪だったよ。寝ても覚めても痛いんだ。どっちが現実でどっちが夢かわからないまま、とにかく助けを求めようと這いずって」
「それで、気を失っては激痛で目覚めてを繰り返してたら、なんだか引っ張られてるんだ。目を開けたらさ、あの風呂場の男の子が『がんばって、もうすこしだから』って私の襟首を引っ張りながら玄関に向かって歩いてるんだ。頑張れないと思ったけど、死ぬ気でやったら立てた。ボタボタ血が垂れて、でも頑張って玄関ドアを開けた」
「気付いたら病院で、呼吸器がついてた」
「あの子たちは、生まれ直さなきゃ上がれないんだよ。でも、あんな告知されて住む女、私以外にいるものか。だから、全員……産んでやるつもりだったのに。あと50人、あと、50人だったんだ。あと……もう少し、だったのに……」
そう言って、友人は涙を流した。彼女の涙を見るのは初めてだった。
話の途中から、ナフタリンの匂いが漂ってきたことも、泣かない女だった友人が涙を流したことも、完全に判断能力が狂っていることも、全てが恐ろしかった。
だから、真っ正面から疑問をぶつけた。今を逃せば、友人は戻ってこない気がして。
「どうして、お前がそこまでしてやらなきゃいけないんだ?」
「……………」
沈黙。悲しみに歪んでいた顔から表情が消えた。
「………可哀想じゃないか」
「でも他人の子で、生まれ損なった命だ。お前が子宮を破く必要はどこにあった?」
「……だって、かわいそうじゃない」
「お前が犠牲になる必要はどこにある?」
「かわいそうだから、だってかわいそう、かわいそうだから、かわいそう、かわいそう…………」
「可哀想じゃない。お前が苦しむ必要はどこにもなかった」
「だって」
友人は、ほぼ白目になりながら、首を傾げて睨め付ける。
「うまれたかった」
思わず引っ叩いていた。物凄い音が鳴り、しまったと思った時には、友人は横に飛んで、床に倒れ伏していた。友人はそのまま動かない。
「おい! すまん、大丈夫か!」
「…………いっっっっっ………てえな、このアホ!!」
起き上がりついでの超スピードで頬を殴られた。しかも拳で。
「病院に戻す気かよ、このクソ野郎……!」
涙目で頬をさする友人。どっちかと言えばこっちが病院送りになりそうなんだが?
お互い自分の歯の確認をしていると、ふと、友人は首を傾げた。
「……あれ、私どこまで話した? あの家が風俗嬢のタコ部屋だったのは話したよな? 夢見が悪い話は?」
「毎晩妊娠して出産してた話は聞いた」
「は? 何だ? セクハラか? お前のエロ妄想に私を使うなよ」
「お前が、ずっと、その話をしてたんだ」
「抜かせ、アホ」
「いいや、言ってた」
「……マジで?」
「マジで。録音しておけばよかったな」
首を傾げながら、「そんな夢見たかな……」と呟く友人は、すっかりいつもの調子に戻っている。安心して、肩の力を抜いた。――と。
「ん?」
怪訝な顔をした友人は、スンスンと鼻を鳴らして自分の服の匂いを嗅ぎはじめた。何の匂いを感じたのかは言われなくともわかっていた。押入れの匂いが、再び漂い始めていた。友人は口角を引きつらせて、やや青ざめている。
「なあ、なんか……」
「それ以上言うな!」
重苦しい空気が流れた。2人とも固まったまま、動けない時間が過ぎる。
外を走る子供たちの笑い声で、緊張が解けた。子供たちの声はランドセルの音と一緒に遠ざかっていく。
「やめよう。この話は」
頷いた友人は、残った茶を一気に飲み干して、「あー、頬っぺたと首が痛え!」と叫んだ。
「湿布買いに行くぞ、ついてこい! お前が買え!」
「買い物だな! よしわかった!」
2人で空元気を出して、近くのドラッグストアまで車で出かけた。店員に怪しまれながら買った湿布を貼って帰った頃には、押入れの匂いなど僅かにも残っていなかった。
***
翌日、俺と友人はあの家の前にいた。荷物は貴重品以外全て処分してしまうことにして、残った貴重品も一度寺に預けてお祓いを受けることにしたので、その貴重品を回収しに来たのだ。
来る前に事情を話しに寄った寺で、御守りを1つずつと、札を貰った。住職は言った。
「恐ろしいことをしたものですな」
「もうその家に関わってはいけません。今回をもって二度と近寄らないように。御守りは作業中、肌身離さず身に着けていなさい。こちらの札は、家に置いて来なさい。どこでもいい。ただ置いて来なさい。帰るときにこの寺に寄りなさい。その時、家との縁を切ります」
水子地蔵供養と書かれたお札は、懐紙に包まれ水引で留められている。
「いいですか。呼ばれても、振り返ってはいけませんよ」
門の前で、足がすくんだ。よく見れば、玄関から門までの道に点々と染みが落ちている。友人が隣で震えていた。
やっぱり、業者に頼まないか?と言おうとした時、友人が叫びだした。
「うぉらあぁぁあああぁぁあッッ!!」
覚悟を決めたらしい友人は荒々しく肩で風を切りながら玄関まで進んでいく。
「おい待てよ!」
追いついた時には、友人は鍵を差し込んで捻っていた。
「ダァッ!!」
開いた玄関ドアの内側、土間は一面乾いた血がこびりついていた。まっすぐ伸びる廊下にも戸が開けられたままの和室から引きずるような血が固まっている。
「ヒッ……!」
情けない声が自分の口から漏れた。流石の友人も押し黙る。それでも、友人は土足のまま足音高々と入り込んだ。
「このクソがぁぁああぁぁぁあああっ!!」
ブチギレ状態で進み、和室を無視してリビングへ向かう。後を追いつつ通りすがりに見た和室には、血まみれの布団があった。
――あの部屋で寝てたのか。俺の記憶が確かなら、2年前は洋室を寝室と言っていたはずだ。もうだいぶおかしくなっていたのかもしれない。
リビングに追いつくと、友人はわあわあ叫びながら持ってきたゴミ袋に通帳やら位牌やら遺影やら、貴重品とアルバムを乱暴に突っ込んでいるところだった。
「畜生! 畜生! 畜生! なんで私がこんな目に遭わなきゃなんねえんだクソが!! 畜生! 畜生!!」
別の意味で怖いので、手持ち無沙汰にあたりを見回す。微かに、シュンシュンと音が聞こえた。友人を視界の端に入れながら、キッチンに向かう。
粉の入った哺乳瓶の横で、コンロにかけられた薬缶が水蒸気を立てていた。
虫唾が走る。コンロに駆け寄って火を消し、哺乳瓶の中身と湯をシンクに捨てた。
いつ、誰が。
走り戻ると友人は、叫び疲れたのか肩を上下させてゴミ袋の中身を覗き込んで確認していた。半透明な袋の中に妙なものが混ざりこんでいる感じはしなかったので、そのまま顔を見合わせて、帰ることにする。
その時だった。
赤ん坊の泣き声が、和室から聞こえた。
和室の戸は開いたままだ。走り抜けようと廊下を見ると、廊下の先、開けっ放しにした筈の玄関ドアが閉まっていた。
いつ閉まった?
友人を見ると、彼女は震えるように首を横に振る。今度は俺が先陣を切る番だった。首から提げた御守りを握りしめ、水子供養の札を片手に和室の戸へ駆け寄る。
押入れの襖が3分の1程開いていた。
「わああぁあぁああぁあああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!!」
水子供養の札を和室にぶん投げ、戸を閉めた。
友人の元に駆け戻ってその手首を掴み、玄関まで走る。
ご丁寧に鍵まで締められていたそのドアを開けようとした瞬間、背後で確かに声が聞こえた。
「ママ」
隣の友人が振り返りそうになる。咄嗟に俺の体とドアの間に引き込んだ。押すようにして門の外へと走る。
「走れぇっ、車まで走れっ!」
「わぁああぁっ! わあぁぁあああぁあぁあっ!!」
いい歳こいた大人が2人、悲鳴を上げながら車に飛び乗った。
寺に着くなり、転げるようにして事務所に駆け込んだ。押入れの匂いが鼻の奥に染みついて離れない。
住職が出てきて、俺たちを見るなりすぐに本堂に連れて行き、お祓いが始まった。
経が読み終わる頃には、押入れの匂いは消えていた。代わりに線香臭くなったが、あの匂いが無くなればなんだってよかった。
「御守りを」
言われた通り渡すと、住職は護摩壇の炎に投げ入れた。
「貴方はもうよいが、貴女は根深い」
俺、友人と指して住職は言う。助手の坊主に命じて、御守りを持って来させた。
友人に差し出して言う。
「この御守りを毎日、持ち歩きなさい。もし無くなったら、すぐに最寄りの寺社で厄除けを貰い、早いうちにここへ来るように」
「水子は純粋故に恐ろしい。無関係な人間が哀れんではいけない。産みなおすなど、もう二度と思ってはいけない」
いまいちピンときていない様子だったが、友人は頷いた。
***
ここまでが、2年前の話だ。それから友人は普通に暮らすようになった。貧乏ではあるけれど、ミルクの世話をしなくていいのは楽だと笑っていた。
数日前までは。
数日前、俺の家にいきなり友人が転がり込んで来た。ひどく怯えた様子で、俺を見るなりしがみついてきた。
「電話が、かかってきたんだ」
震える声で言う。
「あの家が取り壊されることになったから」
相手は不動産屋で、最後の居住者であった友人に、残した家具をどうするかの確認だったようだ。
「そのあと、また不動産屋からかかってきて、何か伝え忘れかと思って出たら」
「『ママ』って」
携帯を放り出して逃げてきたという。俺の耳にも、ぐずるような幼児の声が遠く聞こえていた。
――マぁマ、マぁマぁ……。
無視しないで、と言いたげなその声は、友人の背中から聞こえていた。
すぐ寺へ行ってお祓いを受けたが、住職は黙って首を横に振る。
「もう、できることはありません」
愕然とする俺の横で、車の中から黙ったままの彼女は、1つ小さな溜息をついて、それから、震える手で何かを抱きしめた。
「……もういいよ。わかったから。ほら……」
住職が渋い顔で、その様子を見ていた。
この文を書いている今も、彼女は膝の上の、何もない空間を撫でている。
少しだけ、愛おしそうに。
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