聖霊の消しゴムと糸電話

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聖霊の消しゴムと糸電話

中学二年生の小池美羽(こいけみう)は席を立たされて、女性担任の和上(わがみ)に散々罵声を浴びせられていた。 あなたの字は汚いから、心が汚れている。小学生からやり直した方が良い。と。 一部の生徒は笑っている。美羽の内面には様々な負の感情が渦巻いていた。 学校から帰宅し、悔しさのあまり美羽は自室のベッドの枕に顔を埋めて泣いた。 和上が美羽にこのような仕打ちをするようになったのは、美羽が二年になってからだ。理由をつけては人前で美羽に罵声を浴びせたり、美羽が提出したプリントをゴミ箱に捨てるなど、先生とは思えない行いをしていた。 何故こんな目に遭わされなくてはならないのか、美羽は先生に何かした訳では無いのに…… 両親に相談しようかと考えたが、最近忙しそうなのでできない。両親以外の大人は和上の件もあり信用できなくなっていた。 気持ちも落ち着いたので、美羽は顔を上げた。宿題をしなければならなかった。社会と和上が担当している国語だ。考えた途端にやっと落ち着いた美羽の心が乱された。 ……やりたくない。 美羽はそう思った。やってもやらなくても、和上は美羽に何らかの仕打ちをする。美羽の心は自分でも限界だと感じていた。 「辛そうだね」 美羽の耳元に、声が聞こえてきた。 「誰?」 突然のことに美羽は体を起こして顔を左右に見渡した。 「ここだよ」 美羽は声の方向を見ると、一人の少年が宙に浮いて美羽を眺めている。 「えっ」 美羽は少年を見るなり困惑した。何故なら少年は七年前に病気で他界した弟の(かい)だからだ。 「あなた……櫂?」 美羽の声は震えていた。精神的に追い詰められて亡くなった弟の幻覚が見えたのかと思ったからだ。 櫂は浮いたまま美羽の疑問に答える。 「そうだよ、久しぶりだね。みー姉ちゃん」 櫂は明るく言った。美羽のことを「みー姉ちゃん」と呼ぶのは櫂のみだ。 声も、姿も紛れもなく櫂だ。 「驚くのも無理ないよね。死んじゃったぼくが急に現れたからね」 櫂はゆっくりと美羽のベッドに降り立つ。 「ぼくは人間の負の感情を晴らす闇の聖霊として生まれ変わったんだ。まあみー姉ちゃんの世界でいう幽霊だと思ってくれて構わないよ、実際ぼくは負の感情が強い人間の前にしか現れることができないしね」 確かに櫂は宙に浮いていた。なので幽霊という言葉はしっくりくる。 「負の……感情?」 「恨みとか、怒りとかそういった感じるだよ、みー姉ちゃんは自分でも分かってるよね」 櫂に言われ、美羽は和上に対する負の感情を無視することはできない。 「ぼくは負の感情を持つ人間の要求を叶えるのが仕事なんだ。みー姉ちゃんの負の感情を取り除いてあげるよ! みー姉ちゃんには沢山遊んでもらったし、お礼がしたいんだ!」 櫂は朗らかに語る。 櫂は入院している間は櫂と他愛のない会話を交わしたり、櫂の体調に支障が出ない範囲で遊んだりしていた。治療の甲斐もなく、櫂は亡くなり、美羽は悲しかった。 しかし今この瞬間、幻でも何でも櫂は目の前にいる。美羽は感情には出さないが、久々に弟に会えて嬉しい。 「……じゃあ櫂」 「何かな」 「私の担当である和上を学校から追放して欲しいの、本当は殺してと言いたいけど、死ぬのは後味悪いから」 美羽は自分の願いを口にした。和上の言動と行動は許せないが、あんな和上でも小さな子がいるので、死ぬことは避けたかった。 実際、和上が子供と手を繋いで楽しく笑い合っているのを見たことがある。 櫂を失い辛い思いをしたので、例え憎い相手の和上の子にも同じ思いはさせられない。 「みー姉ちゃんは相変わらず優しいね」 櫂は感心したように言った。 「そうかしら」 「他の人間なら「あいつを殺して」とか「全身不随にして」とか憎々しげに言うんだよね。でもみー姉ちゃんは憎い相手を学校から追い出すだけだからさ」 「どんな理由であれ、殺人はいけないからよ」 美羽は言った。法に触れることはやはりできない。 「まあ良いや、みー姉ちゃんの願いは叶えてあげるよ」 櫂は両手を宙に掲げ、紙と紫色の消しゴムを出した。紙と紫色の消しゴムは空中で回っている。 「それは?」 「紙にはみー姉ちゃんが憎い相手を記しておいたよ、この消しゴムは“聖霊の消しゴム”と言って、憎い相手を消し去ってくれるんだ。写真にこの消しゴムを使って消すと、相手は死ぬ。でも今回は名前だからみー姉ちゃんが望むように相手の顔を二度と見なくて済むようになるんだ」 櫂は長々と説明した。そして紙と聖霊の消しゴムを美羽が使っている机に飛ばした。 紙には和上のフルネームが櫂の字で記されている。和上の名前を見るなり、軽く目眩がした。 「……大丈夫?」 「うん、平気よ」 「名前はみー姉ちゃんの記憶を覗いて見たんだけど、相当嫌なヤツなんだね。ぼくだったら殺したくなるよ」 櫂の声色には怒りが混じっている。 「櫂……」 「ごめんね。勝手にみー姉ちゃんの記憶を見たりして、みー姉ちゃんが書くのを嫌がると思ったからさ、何だったら願いを叶えるのをやめても良いんだよ」 櫂は怒りから優しさを感じる声になった。 櫂は姉想いの弟だった。美羽の辛い様子を見て気遣ったのだろう。 美羽は櫂に首を横に振って答えた。ここで止めたら今日と同じように、明日も暗い一日になる。それだけは御免だ。 それに願いを叶えるチャンスをここで逃せば一生後悔する。 「有難う、でも私はやるから」 美羽は席につき、聖霊の消しゴムを手に取る。 「これで書かれている字を消せば良いんだよね」 「うん……そうだよ」 「じゃあ、消すよ」 痛む心を抑え、美羽は紙に書かれた和上の名前を聖霊の消しゴムで消し始めた。 あんたなんか大嫌い、もうあんたの顔なんか見たくない、私の前に二度と現れないで。美羽は和上に対する感情をむき出しにしていた。酷い顔をしていたのか櫂は心配そうな表情をして美羽を見ていた。 下の名前まで消しきり、紙は真っ白の状態になった。途端に消しゴムのカスが紫色の炎となった。 「えっ……ちょっと」 美羽は炎を見て慌てた。 「大丈夫だよ、呪文が効いている所だよ、火事になったりしないから」 櫂は美羽を宥める。 炎の群れは数秒で消え、紙だけが残った。紙には燃えた後は無かった。 「……終わったの?」 美羽は櫂に訊ねた。櫂は首を縦に振る。 「明日には効果が出るよ、これでみー姉ちゃんは苦しまなくて済むよ」 「そっか……」 美羽は最後に「良かった」とは言えなかった。明日になってみなければ分からないからだ。 「もしかして疑ってる?」 櫂は美羽を見据えた。 「……ごめん。櫂の気持ちは嬉しいけどね」 美羽は謝罪した。櫂が自分のためにやってくれたことには感謝はしたいが…… 「疑いたくなるのも無理はないね。みー姉ちゃんみたいな反応をする人は結構いるんだよね。はっきり言うけど大丈夫、呪文は明日には本当に効くから」 櫂は宙を浮き、美羽の頭をそっと撫でる。櫂がよくやっていた事だ。 温かく、触れられるだけで安心感が美羽の胸に広がる。 「みー姉ちゃんは嫌な思いを沢山したから幸せになって良いんだよ、ぼくとしてもその方が嬉しい」 櫂は手を離した。 「もう行かなきゃ、次の仕事が待ってるから」 櫂の言葉に、美羽は寂しさを覚えた。 もっと話をしたかったが、櫂にも都合があるので我慢した。 「……また会える?」 「みー姉ちゃんに負の感情が溜まったらね」 櫂は体を宙に浮かせ、天井の所まで到達する。 「体に気を付けるんだよ、みー姉ちゃん、しいたけは残しちゃダメだからね」 そう言って櫂は姿を消した。 しいたけは美羽が苦手な食べ物で、小さい頃は櫂が言うように残したが、今は食べられるようになった。櫂はそこまで知らないようだ。 不思議と悲しくは無かった。櫂が生きてるような感覚がしたからだ。 「櫂ったら……しいたけはもう平気だよ」 美羽は呟いた。 櫂が言っていたことが本当だと知ったのは、次の日のホームルームが始まった時のことだった。和上は突然先生を辞めることとなったのだ。詳しい事情は伏せられたが、和上に代わって社会を教えていた青木が急遽担任となった。 幸い青木はまともな先生で、美羽に理不尽な仕打ちをするようなことは無かった。また和上が担当だった時に便乗して美羽にちょっかいを出していた女子生徒が謝罪し、離れていた友人も戻ってきた。 行くのが苦痛だった学校が楽しいと思えるようになった。 和上がいなくなってから二ヶ月が経ち、美羽は家に帰宅し、自室に向かう。 「……ん?」 美羽の机には糸つきの紙カップが置いてある。 出掛ける前には確実に無かった。 「何……これ」 美羽は紙カップを手に取った。その時だった。 『るるるるる』 紙カップから櫂の声がした。美羽は紙カップに「もしもし」と訊ねる。 『また声が聞けて良かったよ、みー姉ちゃん』 櫂ははきはきと言った。 「この紙カップ置いたのは櫂?」 『そうだよ、みー姉ちゃんと連絡とれるようにね。本当なら会って話したい所だけど、偉い人が絶対駄目だって言うから、せめて声だけでもって言ったら許可が下りたんだ。 ちなみにその紙カップはみー姉ちゃんにしか見えないからお母さんに見つかる心配はないよ』 その辺は櫂の不思議な力によるものなので、驚きはない。 「何で紙カップなの?」 『みー姉ちゃんはぼくが図工が好きなの忘れちゃった? 紙カップの糸電話だよ、病院にいる時に作ったじゃないか』 櫂に言われ、脳裏に幼い頃の記憶が過る。 櫂は紙カップに糸を引いて糸電話を作り遊んでいた。 「あ……思い出したよ、懐かしいな」 『それなら何よりだよ、その後はどう?』 櫂は訊ねてきた。美羽のことが気になっているのだ。 「櫂が言ってた通りになったよ、先生が変わったんだ」 美羽は学校生活のことを櫂に語った。櫂は「うんうん」と言いながら美羽の話に耳を傾ける。 『みー姉ちゃんが幸せになったなら、ぼくは嬉しいよ』 話を聞き終え、櫂はやんわり言った。 「櫂のお陰だよ、本当に有難う」 美羽は櫂に心から感謝した。苦痛だった学校は、明日行くのが楽しみになったからだ。 週末には同じクラスの友人と遊びに行く予定である。 『ぼくは当たり前のことをしただけだよ』 「……ねえ、櫂」 『何?』 「もう、急に連絡とれなくなったりしないよね?」 美羽は真剣な声になった。 櫂は亡くなる直前、急に容態が悪化し、別れの言葉をいう暇も無く息を引き取ったのだ。 意外な形とはいえ、櫂と再会できて、こうして声も聞ける。神様が巡り合わせてくれたとしか思えない。 何の予告もなく、櫂との連絡が不通になるのは嫌だった。 『今度は大丈夫だよ、ちゃんと言うから……あの時は急に死んだりして本当にごめんね』 「もういいよ、櫂とこうして話せるだけで十分よ」 櫂の言葉に、美羽は安心した。 美羽の櫂との不可思議な時間はまだ始まったばかりであった。
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