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案内人
部屋をノックする音がする。どうぞと声をかけて入ってきたのは茶色のチュニックを着た30代くらいの小柄な女性だった。
「はじめまして。古平です。しばらく私がお世話係になります。よろしくお願いします」
明るくてはきはきした感じ。僕を見てしっかり挨拶してくる。横目や伏し目で見られることの多いこの屋敷ではあまり見られない対応だ。
「はじめまして、環です。よろしくお願いします」
なんだか嬉しくなって微笑んでしまう。
「あら、顔が赤い。今、だるくてちょっと不快よね。楽にしましょうか」
古平さんは僕をそのままベッドに誘導し、水差しから注いだ水を飲ませた。
「熱は無さそうね。吐き気はどう?」
「大丈夫です」
「そう、よかった」
僕の状態を聞いて微笑む古平さん。本心からの笑みに見えた。この人の関心は、屋敷の本館ではなく明らかに僕に向いている。
「どうして担当が吉田さんじゃなくなったんですか?」
この人なら答えてくれそうな気がして、吉田さんと交代になった理由を聞いてみた。
「それは、彼がβの男性だから。あなたのヒートの影響を多く受けてしまうから」
普段あれほど泰然として動揺しない吉田さんが、僕を視界に入れないようにしていたのを思い出した。
「私はオメガの女だから、ヒートの影響は受けないの。そこを見込まれてここに来ているわけ」
納得と理解者が得られた。ヒートやオメガについても、もしかしたら屋敷の人たちに言われていた『お部屋さん』についてもわかるかもしれない。知らず知らずのうちに僕は身を乗り出していた。
「古平さん、いまヒートは?」
僕はあまり知識がなくて、オメガのヒートは、満月と同じように皆一斉にくるのかと勘違いしていた。個人ごとに体質や状況は違うのに。しかもデリカシーも無かった。
「私はヒートじゃないわ。ヒートは来ないようにしてるから。正確には番相手にしかヒートが起きないし、クスリでコントロールしているから」
やっぱりクスリはあって、飲むとコントロールできるんだ。毎回この不快な感じに襲われるのかと思うとげんなりしていたので、安堵した。
それに番になれば、この不快さから解放されるのか。それは朗報だった。
オメガの先輩に会うのは初めてだったので、今まで抱えていたバース性の不安を古平さんに全部吐き出した。
話し終わる頃にはすっかり僕らは打ち解けていた。話の最後に古平さんは言った。
「あなたは数が少ないオメガなの。自分を大切にしてね」
よく意味が分からなかったけれど、大事なことのように思えて心に留めた。
*
翌日、夕方になって食堂から古平さんが運んでくれた食事を取った。
「これから、満足に食事がとれないから、しっかり食べておきなさい」
小平さんはすっかりお姉さん口調だ。
「何で食事をしっかりって?」
「何でって、ヒートの間、相手が離してくれないからじゃない」
最悪、数日間、食事と睡眠を取れないかもよって脅かされた。僕は想像していたよりも激しい見込みを聞かされ、むせ込んでしまった。
古平さんの指導のもと風呂にはいる。
いろいろな箇所を丁寧に洗う。剃毛もされた。
「永久脱毛すると楽よ」
古平さんはそう言いながら、ベッドで横になる湯上がりの僕の身体の隅々にまで甘い花のような匂いのするクリームを塗り込んでいく。
眼鏡をかけ髪を後ろで結っている姿で作業する古平さんをみていると疑問が浮かんだ。
古平さんは、オメガは貴重って言っていた。オメガは外に出ると襲われ危ないと聞かされた。なのにオメガの古平さんは働いているのだろう。
「どうしたの。何か疑問でも?」
古平さんをじっと眺めている僕を見て優しく問いかけてきた。許されそうな雰囲気を感じて疑問に思ったことを口に出した。
「どうして、貴重なオメガなのに、古平さんは働いているの?」
「私のパートナーは貴方のパートナーほど、裕福なわけじゃないから、私も働いているわけ。貴重なオメガ特性と資格を使ってね」
繰り返される貴重という言葉。僕の施設の仲間は皆オメガだったのに。
「貴重って、そんなにオメガはいないの?」
にこやかにしていた古平さんが、憤りと悲しみを含んだような表情を浮かべた。
「オメガはアルファの嗜好品なの。ヒートに狂う性になりたがるものはいないの」
僕の困惑した顔を見たからか、古平さんはオメガの世の中におかれている状況を話し出した。
「アルファは自然出産でも人工授精でも生まれにくい。アルファ同士ならアルファが生まれる確率は高い。でも社会的地位が高い同士プライドが高く上手く行かないことが多い。
お互いが自立しているから、相手に気を使ったり、すがる必要なんかないのよ」
アルファは社会のリーダーになるべくして生まれた至高の存在。知性も気力も美貌も合わせ持つ。そう施設で習っていた。アルファはプライド高いとか仲が悪いとかは知らなかった。
「そこで特定のアルファは考えたわけ。アルファを産みやすいのは誰だ?
それはオメガだって」
抑揚を付けて古平さんは言う。僕はこの場にオメガの名称が出てきてどきどきした。なんだか自分のことを言われてる気がしたのだ。
「子どもの性をある程度選択出来る社会で最初から不利益を被ることが多いオメガ性を望む親なんていない。
無計画、無造作に妊娠して、偶然生まれてきてしまったオメガくらい。社会で珍しいから珍獣扱い。私はそんな珍獣だったオメガの、その後よ」
僕はただ古平さんを見つめる。古平さんは咳払いをして話を続けた。
「話を戻すわね。それで特定層は考えたのよ。特定のアルファに合う番になるべきオメガを育てればいいって。
それがあなたたち。
最初からパートナーが運命の番になるようになってる。
一人で世間に出て番を探すのは大変だわ。オメガと判ると何をされるかわからないから。
番を探す、特に出身階層が違えば、力のある番とはなかなか巡り会えないわ」
なにか聞いてはいけないものを聞いてしまった気がする。うなじ辺りがちりちりして落ち着かない。
「こんな話を僕にしてしまっても大丈夫ですか?」
「大丈夫。だって私の代わりはいないもの。この家にあなたがいる限り、私は必要よ」
古平さんは強い。独自の強みがあり自立しているからか。
それと、ふと気がついた。古平さんは対オメガの特殊な仕事をしている。もしかしたら、古平さんは密や施設の誰かに関わっているのかもしれない。だって特定層のオメガをケアをする人間は、限られている。
施設を出たら連絡を取ってはいけないそう言われていた。だけどこっそりメモを送るくらいだったら。僕は自分の思いつきに飛びついた。
「古平さんの担当してる他のオメガで僕の知り合いがいるかも。
もしそうだったら連絡をしてもらうことは……」
「それはできないわ。個人に関する情報は契約違反になるわ。オメガがいること、特にあなた達みたいな特別なオメガは秘密だし。あなた達が育ったような施設はトップシークレットだもの」
僕の揺らぎは古平さんに即座に跳ね返された。
古平さんは「がんばってね」と僕に戸惑いと励ましの言葉だけを残して退出していった。
夜もふけた頃、ドアがノックされた。
僕は聞いていた手順通りドアを開けてノックの主を招き入れた。
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