音大崩れ

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「音大崩れ」  (序) ここは東高校の中庭。市内では名門校として通っている。校舎はコの字型で、中央に職員室があり、それを取り巻くように教室棟と特別室棟が建っている。その校舎に囲まれて砂利を敷いた中庭があり、何人かの生徒がバドミントンなんかに興じている。一見何の変哲もない田舎町の高校であった。そこにある日、降って湧いたような事件が起こる。  平成三年の五月のゴールデンウィーク明けのことであった。中庭でドスンという音がした。一階にいた三年生の生徒達が一斉に中庭を見る。すると、制服を着た女子生徒が倒れていた。   「おい、誰か飛び降りたぞ」  「誰や、誰や、自殺か?」  職員室にいた教師達も一斉に中庭に降りてくる。やがて生徒達の人だかりができあがった。中庭には女生徒の遺体がうつ伏せになって転がっていた。否、転がっていたという形容は不適当だろうか?そこにあった。顔中から血を流し、既に息はなかった。  やがて降りてきた生徒指導部長が言った。  「おまえ等、あんまり近くへ寄るな。それから、この子が誰か知ってる奴はいないか?」  返答はなかった。三年生ではなさそうである。  「とにかく救急車。それから警察」指導部長がテキパキと指示を与える。  やがて救急車と警察が到着した。一年生も降りてきた。  「おい、これ藤田やないか?」  「ああ、あのブスか?」  「ほんまや。藤田洋子や。屋上から飛び降りたみたいやぞ。大変や」  女の子もやってきて死体を見るなり顔を押さえた。  「キャー。洋子ちゃん」誰かが叫んだ。  「佳純ちゃん、洋子ちゃんと友達やったもんねえ」  男子が口を挟む。  「あのブスで性格も悪い奴や。何で自殺したんやろなあ?いじめかなあ?」  「あんたら、さっきからブスブス言うて言わんといて。人が死んでるんやで」  やがて指導部長が物見高い生徒達にわめき散らした。  「おまえ等、中庭から出ていけ!」生徒指導部長の一喝で生徒達は退散した。そこへ救急車と警察がやってきて実況検分を始めた。  「屋上に靴が揃えて置いてありました。自殺だと思われます」  警察官が言った。やがて鑑識なんかもやってきて屋上と中庭を調べ始めた。遺体は既に救急車に乗せられて運ばれた。   その一週間後、奇妙な噂が生徒達の間に広まった。  「おい、ブスの自殺女の藤田から男の精液が検出されたらしいぞ」  「検出された言うてどこからや?」  「どこから言うてお前、決まってるやないか」  「あのブスが自殺する前にやってたんか?」  「ああ、何か死ぬ前にはしたくなるらしいぞ」  「したくなるって何を?」   「お前、そんなこと決まってるやないか」   「ああ、そうか。でもこんなブスでも男がいたんやなあ」  「その男に突き落とされたんやないか?」  「あほ言うな。警察も自殺や言うてるやないか」  「何で自殺したんやろ。いじめかなあ?」  「これから先生がいじめがなかったか調べるぞ。お前いじめていたんやないか?」  「あほ言うな。あんな奴いじめたら後が怖いわ。そんな誰もいじめなんかせえへん」  「それもそうやなあ」   やがてこの事件は有耶無耶になった。いじめの証拠は発見されず、遺書も発見されなかったが、飛び降りたと思われる屋上にはきちんと上靴が揃えられていたので自殺と断定された。そして誰もこのことは話さなくなった。 (一)  恭輔は田舎で生まれ育った。家の目の前には兵庫県で一番舗装状況が悪いと言われている道路が走り、バスやトラックが来ると乗用車はバックすることを余儀なくされた。アスファルトではなく砂利道である。そして恭輔の家の後ろまで植林も何もしてない山が迫っていた。道路の下は棚田が広がり、そのまた下にあった小川が恭輔の子供時代の遊び場だった。学習塾なんかには行ってなかったし、同じ小学校の同級生でも学習塾へ行っている子供なんかはいなかった。完全に町からは隔絶された所だったのだ。  ただ、こんな田舎にも珠算塾があり、そこへ通っている子供はいた。隣の家まで百メートルもあった。珠算塾へは一キロはあった。   恭輔の両親はともに教師であり、父は小学校で教鞭をとり、母は中学校の音楽教師であった。母は町の生まれでピアノなんかを弾くことが趣味であった。父は田舎育ちである。性格も育ちも全く違う両親がどうやって結婚したのかは恭輔には分からない。そして母の意向だと思われるが、恭輔が幼稚園児の頃に当時の田舎では珍しく高い買い物をした。  ピアノである。アップライトのどこにでもあるピアノであったが、当時の田舎でこんなものがある家は珍しかった。  そして恭輔の母は恭輔と妹にピアノを無理矢理教えこんだ。恭輔には兄もいたのだが、なぜか兄だけはピアノを習わなかった。  いつの頃からか、このピアノが恭輔の「お友達」になってしまった。そしてピアノの前で五時間も粘ることが恭輔の日課になってしまった。 普通、子供がピアノの前で五時間も粘るなんて異常だ。しかしそれが恭輔の「障害」だということにまだ誰も気づいていなかった。大体芸術的センスがあるのならば絵や工作も上手かっただろうと思われがちであるが、恭輔は違った。どんな絵を描かせても平面的な絵しか描くことができず、また工作も苦手であった。恭輔の描いた動物の絵は牛も馬も犬も猫も区別がつかなかった。また、昔の子供というのはプラモデルなんかを作ることを楽しみにしていたが、恭輔はプラモデルを完成させたことなんかはなかった。そして押し入れの中はいつも作りかけのプラモデルの山が積まれていた。  大体天才というのは既に幼少の頃から秀でた能力を発揮する。例えばモーツァルトは3歳で初めての曲を作曲している。この点では恭輔は「天才」ではなかった。ただ、持続力があるというだけの鈍才である。しかし田舎では秀才と呼ばれ、また「音楽の天才」と呼ばれていた。事実、恭輔はピアノを習い始めてわずか三ヶ月でベートーベンの「悲愴ソナタ」の全楽章を弾いた。  これにはピアノを教えた母親も驚愕して、自分の手に負えないと思ったのか別のピアノ教師をつけた。すると、教えもしないのにベートーベンやショパンの難曲を次々とマスターしていった。  恭輔のついたピアノ教師は自分の教室を持っていたばかりではなく、教え子の発表の場も提供していた。こうして、ある日、女の子に混じって恭輔が初めての発表会に出ることになった。そこで恭輔は人生最初の大失敗をやらかしてしまうことになる。恭輔が小学校一年生の時であった。  (二)  何人かの女の子に混じって恭輔もそこにいた。市内の私学の高校に小さなホールがあった。勿論、この学校には体育館もあるのだが、発表会が行われたのは幼稚園のお遊戯をするような小さなホールであった。何人ものドレスで綺麗に着飾った女の子がいた。そしてその中に恭輔の姿もあった。下は半ズボンに上はセーターという普段着のいでたちであった。これから発表会でピアノを弾く少年には見えない。両親と妹も観覧に来ていた。   恭輔の弾く曲はベートーベンの「悲愴ソナタ」の第三楽章であった。この曲に決めたのはピアノ教室の先生だった。十分に弾けると踏んでのことであろう。事実、この曲は恭輔が一番初めに覚えた「難しい」曲であった。  恭輔は五人目にピアノを弾くことになっていた。そして四人目の女の子の演奏が終わった。ブルグミューラーの簡単な曲であったが、聴衆は惜しみない拍手を与えた。   その頃、恭輔は一人楽屋で考えていた。「ハ短調のフラットは三個、先ずはソの音を弾いて、それに左手がくっついてくる」そう独り言を言いながら鍵盤も何もない机をピアノに見立てて軽い練習をしていた。そして恭輔は舞台へ上がった。アナウンスが聞こえる。  「次の演奏は相山小学校一年生、加納恭輔君のピアノ。曲目はベートーベン悲愴ソナタ第三楽章です」  一同が「うおー」と叫び声を上げた。小学校一年生の子供が弾く曲とは思えなかったからである。恭三は聴衆に向かって礼をするとピアノの椅子に座った。先程まで子供が弾いていたので椅子が高かった。そこで恭輔は椅子の高さを調節してから座った。一同が静かになる。いよいよ初めての発表会だ。  「ハ短調のフラットは三個、先ずは右手でソを押さえると左手がついてくる」そう独り言を言いながら白鍵のソの音を押さえた。しかし、その時、なぜかピアノが真っ白になり、黒鍵まで白くなり、あろうことか頭の中まで真白になってしまった。昨日まで弾いていたのに---。そして最初の「ソ」の音を押さえたまま動かなくなってしまった。いつも弾いている曲なのになぜか弾けなかった。聴衆がざわつき始める。 「おい、どうした?」 「早く弾くのよ」 そして何を思ったのか恭輔は大声でわめき始めた。   「ハ短調のフラットは三つ。最初はソの音。後は左手がついてくる!」  「おい、何やってるんだ?」恭輔はもっと大音量で叫んだ。  「ハ短調のフラットは三つ!最初はソの音!先ずは右手で!それに左手がついてくる!」  「この子、緊張のあまり弾けなくなったみたいよ」  「おい、何やってるんだ?」そんな野次が聞こえてきた。そこで慌ててピアノの先生が楽屋からやってきて聴衆に礼をしてマイクに向かって叫んだ。   「皆さん、すみません。この子はいつも悲愴ソナタを弾いているんですが、なぜか緊張のあまり弾けなくなったようです。もう降板させますので拍手でお送り下さい」  そして暫く経ってから聴衆の誰かがゆっくりと拍手をした。つられて何人かの聴衆が拍手をし、拍手の音は大きくなっていった。相手は小学校一年生である。「できなかったがよく壇上に登った」と言っているかのような惜しみない拍手であった。  恭輔は礼もせずに楽屋に退いた。楽屋では彼の両親が待っていた。  「何よ。この子は。みんなに恥かかせて。どんだけ恥ずかしかったか」と母親が言った。  「まあまあ、そう言うたるな」と父親が言った。その言葉をさえぎって母親は恭輔の頭を平手で押さえ、「さあ、ピアノの先生に謝るのよ」と言った。しかし恭輔は謝らなければならない理由がわからなかった。そこでピアノの先生に向かってなぜか独り言のような小さな声で泣きながら言った。  「ハ短調のフラットは三つ。最初はソの音。先ずは右手で。後は左手がついてくる」  それはピアノの先生から繰り返し言われていたことであった。ピアノの教師は苦笑いしながら「恭輔君、もうわかったから」と言った。  父の車で家路についた。その中でも田舎の「天才坊や」はこっぴどく母親から叱られ続けていた。  「ほんまに、この子はピアノの先生だけやなしに家族のもんにも恥かかせて」  これが恭輔の最初の大舞台だった。   (三)  小学校時代の恭輔は音楽以外は何もできなかった。国語・算数・理科・社会の通知表は3か2、平均的な少年であった。ましてや音楽以外の技能教科は誰に似たのか良くても3、普通で2だった。特に図画工作や体育は大の苦手とするところで、点数もつけられないといった有様であった。  これに対して兄は勉強も運動もよくできた。習い事なんかしなくても成績は抜群に良く、クラスでもトップクラスだった。だから母親は兄には何も習い事はさせず、恭輔と妹だけにピアノを教えたのである。「こんな子でも何かできることはあるだろう」そう思ったのか、小学校の三年生からは珠算や英会話まで習わされた。  両親にとっても、兄だけは自慢の息子であった。事実、通知表には5が並ぶ天才児であったし、小学校の児童会長までつとめていた。  恭輔も「この兄は天才ではないか?」と思ったことがある。それは習いもしないのにピアノを弾いてみせたからだ。それも「エリーゼのために」なんていった簡単な曲ではない。ショパンであった。恭輔がショパンの「マズルカ遺作」を覚えて弾いていると、それを聴いていただけの兄は突然ピアノに座っていた恭輔に向かって「どけ」と言った。そして丸いピアノ椅子の高さを調整したかと思うと、さっききまで恭輔が弾いていた「マズルカ遺作」を弾き始めたのである。これには恭輔も驚いて開いた口が塞がらなかった。  この兄は勉強だけではなく運動もよくできた。特に走るのが得意であり、長距離のレースでは必ず一着を取るのであった。  また、恭輔には友人というものが少なかった。近所の子供達と一緒に忍者ごっこなどをすることもあったが、大抵は女の子とお人形さん遊びやおままごとに興じていた。そして野球やサッカーをやろうと誘われても行かなかった。できなかったのではなく、ルールを全く知らなかったのだ。  そして近所には同学年の男子が三人いたのだが、彼らとはよく遊んだ。田舎であったので遊び場所には事欠くことがなかった。最近の子供達は立派な公園がありながら、家の中でゲームをするのに夢中で全く使わないという。もったいないことである。  この三人の中に野田という男がいた。性格は温厚で恭輔に似ていた。この彼は中学に入ってから吹奏楽部に入ってトランペットの名手になり、またギターも弾くようになって、そのために恭輔の音楽友達になる。  少子化で頭を痛めている現代とは違って、子供達はいたる所にいた。田舎の小学校なのに各学年は数クラスあった。  この小学校で恭輔は友人達の前でよくピアノを披露した。ピアノが弾ける田舎の子なんか少なく、ましてや男子でピアノが弾けるなんて珍奇なことを通り越して異様であった。本当に異様なのかは分からないが、とにかく同学年の連中はみんなそんな目で恭輔のことを見ていた。  恭輔が小学校の三年に上がった頃である。彼はショパンの「幻想即興曲」に挑戦した。例によって一日五時間ピアノの前に陣取って練習を始めた。大体、宿題や予習・復習なんかをやってからピアノに向かうというのが普通の小学生だと思うが、彼は違った。ある曲を弾くと思ったらマスターするまでは学校の勉強なんかそっちのけで練習をするのだ。これではピアノは上達するかも知れないが、勉学が追いつくはずはない。しかし、それが恭輔の「日常」であった。この頃にはピアノ教室でも既にチェルニー三〇番が終わって四〇番をやっていたし、バッハのインベンションやハノンピアノ教本などは完全に終わっていた。そしてソナチネアルバムなんかはとっくに終わり、ソナタアルバムをやっていたのだ。  そして約三ヶ月で一応「幻想即興曲」が弾けるようになった。ただ、音楽をやる者として致命的だったのは、彼には曲を覚えてもそれを発表する場がなかったことと、ライバルがいなかったことであった。彼の兄はよく恭輔のピアノを勝手に真似て弾いたりすることはあったが、さすがに幻想即興曲は弾けなかったようである。  次に恭輔が挑んだのはリストの「ラ・カンパネラ」であった。指の短い彼には難曲であったが、これも三ヶ月ほどで弾きこなすようになった。  しかし、両親は心配であった。確かに音楽の才能はあるようだが、その他のことが何もできない。これでは音楽の天才ではあっても人間として半人前だ。そこで小学校の教師をやっていた父親は恭輔をよく高校野球の観戦なんかに連れて行った。しかし恭輔は試合には全く関心を寄せず、アルプススタンドで応援をしている吹奏楽の音楽に合わせて膝でリズムを取るばかりであった。  一方の兄は中学生になっていた。そして吹奏楽部と陸上部を兼部し、吹奏楽ではトランペットの名手、陸上ではマラソンの選手として活躍していた。妹も小学校へ入ってきたが、どちらかというと勉強は好きな方だったので、そつなく学校生活をエンジョイしていた。 恭輔はやがてみんなの見ている前ではピアノを弾かなくなった。そして、ごく普通の小学生として小学校の高学年を過ごした。やがて恭輔は地元の中学へ上がった。 (四)  中学では、恭輔は吹奏楽部に入ろうと決めていた。恭輔が入った中学には文化部は吹奏楽と郷土部しかなかった。他は体育部であった。恭輔が吹奏楽に入ろうとした目的は「みんなで音楽を作る」なんて高尚なものではなかった。吹奏楽の練習をする音楽室にはピアノが置いてあり、それが自由に弾けると思ったからである。  最初に吹奏楽部を見学していたら、音楽の教師が言った。  「君はトランペットの加納君の弟か?」  「はい」  「それならばトランペットをやってもらおうか。彼の兄さんもトランペットが上手かったからな」   「いや、僕はパーカッションがいいです」  その言葉を無視して音楽の教師はトランペットを持ってきた。こんなもの吹けるわけがない。恭輔は何か自分がとんでもない期待をされていることを悟った。そしてそれは次にこの教師から発せられた言葉で確実なものとなった。  「お兄さんは陸上もやっていたんやけど、陸上には入らへんのか?」  「いや、僕は運動が大の苦手で入りません」   「ふーん。そうか。じゃあ吹奏楽の方をしっかりとやってくれるか?」  「はい。でも僕はトランペットなんか吹けません」  「誰でも最初のうちはそうや。そのうち吹けるようになる」  こうして恭輔は吹奏楽の部員となり、トランペットの練習を始めた。最初は音を鳴らすだけで必死だった。管楽器というものは音を鳴らすだけでも難しい。先ずはその練習であった。パート練習ということで先輩が懇切丁寧に音の鳴らし方を指導してくれた。  音楽室に行けばピアノが自由に弾けると思っていた恭輔であったが、ピアノに触る機会もなかった。戯れにピアノに触れると「誰や!ピアノを触っているのは?」と音楽の教師の怒鳴り声が飛んだからだ。  恭輔には中学時代の楽しかった思い出なんか一つもなかった。一年生の頃はクラスでいじめられ、二年・三年生は部活動で後輩から嫌われていた。その理由は後述するが、何も面白くはない中学生活であった。大体、部活動が嫌ならやめたらいいのである。しかし、音楽の教師や両親からやめることは禁じられていた。  「こんなことでやめるようならば将来ろくなもんにならない」と言われたのだ。しかし、事実は違う。恭輔は大学に入ってから武術系の厳しいクラブに入ったが、やめることはなかった。元々彼は発達障害を持ち、その障害の性質から言って「他人と合わせる」なんてことは高等数学の数式を理解するよりも困難なことであったのだ。しかし彼の障害が発見されるのは彼が大人になってからのことであった。  そうして約半年かかって恭輔はトランペットで1オクターブのドレミファソラシドができるようになった。  部活動もそうだが、大体学校なんか行っても何にもならないと、この後に教師になることになる恭輔は考えている。学校なんか嫌ならやめたらいいのである。いじめ自殺なんかが日本中で起こっているが、学校なんて命を賭してまで行くような所ではない。今ではフリースクールもあるし、通信制の学校なんかいたる所にある。「学校へ行かない」というのは選択肢として何も間違ったことではないのだ。  しかし恭輔は学校へ行った。命をかけて行った。そして何か嫌なことがあると暴力に訴えるか泣くか、もしくは他のことに全身全霊を傾けるかしか術はなかったのである。まだいじめが社会問題化する以前の話であったからである。いじめで自殺する奴もいなければ不登校になる者さえいなかった。  こうして恭輔の中学生活が始まった。 (これ以降も一部公開しました。残りは後ほど)
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