交差点

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「夏目ちゃん、大丈夫?」 「あ、いえ、すみません。平気です」 「平気な顔してないって。鏡見てごらんよ。真っ青だよ。今日はもう、帰ったほうがいいって」  給湯室のシンクに手をついて吐き気をこらえていると、入口に立つ人影に声をかけられる。振り返らなくてもわかる。 「いえ、帰りません。福澤さんこそ、現場戻ってください。こんなところにいたら、なに言われるか」 「いいって。俺は、チーフの雷には慣れてるから」  そうじゃないのだと言いたいが、こみあげてくる吐き気がひどくて、余計な話をする気になれない。  福澤さんはいい。なんのかんの言われても、この仕事が四年も務まっている。仕事ができるから。あたしとは違う。 「あんまり思いつめないほうがいいよ。俺らだって、息抜きにしょっちゅう一服しに行ってるわけだし、夏目ちゃんももう少し、肩の力抜かないと」  そんなもの、抜けるわけない。全力でやって、この程度。舐められるのが嫌で、迷惑をかけるのが嫌で、歯を食いしばって堪えているのに。  福澤さんはやさしい。新人には誰にでもやさしいと言われているが、この地獄の現場では唯一の命綱。 「頼んでいた資料、もう一本追加ね。悪いこと言わないから、医務室で横になっておいでって」  シンクの端に置かれたメモを見ると、福澤はもういなくなっていた。メモの隣には板チョコ一枚。  いい人なんだけど、どこかズレてる。嘔吐寸前なのに、チョコなんて食べられるわけないし。先週から、味がしない。亜鉛が足りないのかと思って、サプリを飲んだけど効果ない。  甘いも辛いもしょっぱいも、まるでわからない。粘土細工を食べてるみたいだ。 「あれ、夏目ちゃん、どうしたの?」  シンクにうずくまっているのに、どうしてあたしだとわかるんだろう。いま、一番聞きたくない声が聞こえてくる。  幻聴だったらいいのに。誰か嘘だと言って。樋口になんて会いたくない。こんなに弱っているところ、見られたくない。 「もしかして、妊娠しちゃった? 誰の子?」  ふざけるなって怒鳴り返せたら、どんなにいいだろう。相手はスポンサー。お金を出してくれる取引先。上司に訴えても無駄。そんなに気に入られてるなら、枕営業してこいって言われるのがオチ。それが、日本の男社会。  聞こえなかったふりで背を向けているのに、樋口は近寄ってくる。 「夏目ちゃんさ、俳優とかアナウンサーと仲いいって噂、ホントなんだね。純情そうな顔して、男を手玉に取るなんて、悪いオンナだな」  根も葉もない噂流した奴、殺すって言いたい。言えない。 「……ッ」 「まだ、膨らんでないんだね。仕事続けるなら、早く堕ろさないと。いい病院紹介しようか」  呪いで人を殺せるなら、いますぐコイツを殺したい。いますぐ、あたしの腹を撫でる手をどけやがれ。ついでに、胸まで触ろうとするな。樋口の手を振り払うことすら嫌で、体をよじってなんとか逃れる。 「いつでも、声かけてね。俺は夏目ちゃんの味方だからさ」  壮絶な勘違いをしたまま、樋口は去っていった。いなくなったと思うと、その場にしゃがみこんでいた。  殺菌したい。消毒したい。樋口が触ったところ全部。空気も入れ替えたい。 「も……むり、マジで……」  隙を見せる方が悪いと言われる。弱者には声を上げる権利すらない。  早く一人前になりたい。あんな気持ち悪いクズを上手くあしらえるくらい、強くなりたい。  でも、無理かな。体中、砂が詰まったみたいに重くて、指を動かすのも億劫で。ここから、立ち上がれる気がしない。  泣いたら負けだ。わかっていても、あとからあとから溢れて止まらなくなる。  
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