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「福澤さん」
坂道の途中で立ち止まると、ひときわ強い風が吹いた。酔いが冷めてきたらしい。急に寒さを覚え、コートの襟をかきあわせる。
「どうして、ここに」
ようやく追いついた福澤さんを前につぶやいていた。
「夏目ちゃんが、ひどい顔してたから」
「そんなに、ひどかったですか?」
「うん。どんどん痩せてくし、顔色悪くなるし。元気なくなってくの、ただ、そばで見てるだけって、つらいよ」
「すみません。心配おかけして」
「ごめん。俺じゃ力不足で、なんにもしてあげられなくて。歯がゆくてしょうがない。チーフも樋口さんも、悪い人じゃないんだけど、でも、許せない」
福澤さんに、なにをどこまで知られているのだろう。そう思うと、体が冷たくなって、足元の底が抜けていくようで恐ろしくなる。
もしかして、樋口に妊娠説でも言いふらされた? あれ以来、他の人からはなにも言われなかったから油断していた。
「夏目ちゃん。あの、今日、言うつもりじゃなかった。でも、渡したいものがある」
そう言うと、福澤はカバンから小さな包みを取り出した。
「これ、開けて欲しい」
「え」
押しつけられた小さな箱を見て、心臓が早鐘を打つ。あたしの勘違いじゃなければ、これは、この瞬間っていうのは。
震える手で小箱を開けると、飾り気のないシンプルな指輪が光って見えた。
「順番、違うのはわかってる。でも、どうしても、いま言いたい」
真剣な表情が怖くなる。福澤さんが向けてくれる好意は嬉しかった。頼れる兄のような先輩。一人の後輩として尊敬してたし、こういうADになりたいと思っていた。あたしの理想だった。
異性として意識したことがない、なんて言えない。
いつでも煙草くさくて、充血した目をこすって、ためいきばかりついていた。床の上に転がって死んだように寝ていた。電話でたたき起こされると、不機嫌そうにあぐらをかいて、手近なペットボトルに手をつける。それが誰のものかも気にせずに。不精な仕草の一つ一つに、男を感じた。
「結婚してほしい、俺と」
つきあって、ですらない。唐突なプロポーズに、息をするのを忘れる。
「俺なんて不甲斐ないし、欠点いっぱいあるし、まだまだだけど、でも、この気持ちに嘘はない」
「ふくざわ、さん……」
胸がつまる。苦しい。こんなに、強引に迫ってくる人だなんて知らなかった。
手を握られていた。白い息が風にのって流れていく。信号は赤から青になって、また赤くなって。何度も色を変える。
「これからもっと、頼り甲斐のある男になるから。夏目ちゃんが無理してるの、見たくない。だから、ADなんて辞めて、俺の奥さんになってほしい」
あたしの目の前にいる、間近に迫ってくる福澤さんの顔は真剣そのものだった。
「ごめん。苦労はかけると思う。でも、夏目ちゃんがこんなクソみたいなことで消耗していくの、絶対間違ってると思うから」
クソみたいな仕事だって知ってる。どんなに頑張っても報われない。弱者は病んで壊れていくだけ。知ってる。でも、踏ん張ってた。どうにかしようって、足掻いてた。
同じADの福澤さんなら、あたしの気持ち、わかってくれてるって思っていた。
信号はまた点滅している。車が通って、トラックが通って、ジョギングの人が、バイク便が通る。
「福澤さん。これ、やっぱり返します」
小箱をそっと閉めて、突き返す。目を見開いて、口をあんぐりと開けている男は、手の中に押しつけられた小箱を凝視している。
「さようなら」
点滅を始めた信号に気づいて、人気のない交差点を駆けだした。道路の向こうの福澤さんは、まだその場に立ちつくしている。
一台の車が通り、また一台、続いてタクシーが通り過ぎる。あたしは振り返ることもしないで、坂道を下って駅へ向かった。
いつのまに厚い雲が晴れたのだろう。ビルの谷間に挟まるように、白い三日月が光っていた。
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