136人が本棚に入れています
本棚に追加
やがて、空になったナポリタンの皿が二つ並び、壁の時計は時を刻み午後8時半になる。凛は瀬戸に指摘された脚本の箇所を改稿する作業に没頭していた。瀬戸はその隣でセットで頼んでいたブルーベリーソースのかかったレアチーズケーキを美味しそうに食している。一口食べるたびに微笑むのは、彼が部類の甘党であることを暗に示していた。皿を下げに来た山辺は凛が全然こっちを見ないのにため息をついて、瀬戸に珈琲のお代わりを勧めた。
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」
「では、何かありましたら、お呼びください」
山辺が去ろうとすると、瀬戸が呼び止めた。
「あの、このチーズケーキは貴方の手作りなのですか?」
「いえ、デザートは近くの《かほり》という製菓店から仕入れております。僕は恥ずかしながらまだ勉強中で」
山辺は頭を掻いた。幼い頃から料理は好きで良く作ってはいたが、製菓までは勉強してこなかったので、近所でも評判のケーキ店から毎朝届けられるケーキを提供していた。
「かほり…聞いたことがあるような気がします。とても美味しいですね」
「ありがとうございます。店主に伝えておきますね」
瀬戸は窓の外を見て、それから腕時計を見た。雨はもう止んでいた。
「そろそろ帰ろうかな。雨宿りに寄らせてもらったけれど、おかげでとてもいい出逢いがありました。素敵なお店と美味しいナポリタンにケーキ、そして面白い脚本に」
瀬戸はそう言って凛と山辺に微笑んだ。そして財布を出そうとするのを、凛が止めた。
「脚本を見ていただいたので、ここは私が」
すると、瀬戸はじゃあ、これを代わりにと一枚の名刺を凛に差し出した。
「もしまた執筆に悩まれるようなことがあれば、私でよければ何か力になれるかもしれませんからいつでもご連絡ください」
「で、でも、いいんですか、私なんかに…」
「気になるんです」
「え?」
「あなたの書かれている障がいのあるヒロインと健常者の男性の恋愛。そのお話の続きが」
凛の瞳が揺れた。
「さっきただの趣味で書いているとお話しされていたけれど、熱量がすごいというか、春野さん、貴方は何か…世の中に伝えたい想いがあるのではないですか?」
「……」
「もし、完結されたのでしたら、連絡を下さい。東西テレビに信頼のおけるプロデューサーがおります。彼に連絡を取ってその脚本を読ませたい。世に埋もれさせるにはもったいないと私は思います」
凛の名刺を持つ手が少し、震えたのに、後ろに立っていた山辺は気がついた。
瀬戸は柔らかい笑みを浮かべ、山辺にも視線を向けた。
「ここは素敵なカフェですね。蔵書も豊富なようです。今度また講義で大学に来ることがあったら、今度はゆっくり蔵書とお茶を楽しませていただこうと思います」
瀬戸は大学の特別講義で学生達に脚本の書き方を教えていて、その帰りに急な雨に降られてこのカフェに立ち寄ったと凛は聞いていた。
「では、また」
瀬戸が帰ろうと背を向けた時、会計を一足前に終えたばかりの一人の客が後ろから足早に歩いてきてぶつかった。
「すみません」
その客は咄嗟に謝った瀬戸を一瞬ちらりと見たが、何も言わず店を出て行った。瀬戸は暫く佇んでいたが、その客の後を追うように足早に店を出て行ってしまった。
その様子の不自然さに凛と山辺は顔を見合わせた。
「あの客、自分からぶつかったのに謝りもしないなんて」
「ですね」
それから、凛は大切そうに瀬戸からもらった名刺を財布に入れた。そして自分もそろそろ帰ろうとノートパソコンをかたずけようとした時、店の扉が開いて、先ほどの客と瀬戸が連れ立って戻って来た。
瀬戸はその客、まだ10代後半ぐらいの少年の腕を掴んでいた。少年は俯いたままであったが、黒いパーカーを着て、今はそれを頭から被っていたが、その下には紺色の制服を着ていた。山辺はその制服を知っていた。近くにある私立の中高一貫校の高等部の制服であったからだ。
「どうされました?」
山辺の問いに瀬戸は少年を促すように頷いて見せた。
「彼、この店の本を持ち去ろうとしてましたので引き留めました」
「え?」
驚いた凛と山辺に、少年は俯いたままではあったが、着ていたパーカーの内側に隠し持っていた漫画を一冊、山辺に差し出した。この店で万引きがあったのが初めてだった山辺が何も言えないでいると、瀬戸が少年の頭に優しく手を触れ、パーカーを取った。
「さあ、謝ろうか、少年」
瀬戸の口調は諭すように優しかった。
「…すみませんでした」
耳を澄まさなければ聞こえないくらいの謝罪だった。
「君、丸誠高校の生徒?」
少年は黙っている。
「今、帰り?」
少年は山辺の問いに今度は顔を背けてしまった。
「もう遅い時間だし、ご両親に連絡して迎えに来てもらう?」
と、凛が少年の顔を覗き込んだ瞬間、彼はいきなり凛を突き飛ばして、店を飛び出して行った。
山辺は彼を追いかけようとしたが、瀬戸が引き留める。
「見逃してあげてください」
「え?」
「先ほど店の外で声をかけた時、彼は私に大きな声でちゃんと謝ってくれました。だから、どうかお願いします」
瀬戸が深々と山辺に頭を下げた。
「あ、あの、頭を上げてください。あなたは何もされてないし」
「丸誠高校は私の母校なんです。実は私、彼が店に入ってきてあの漫画を読んで、それからそっとポケットに入れるのを見てました。さっきお会計している時まで彼が上着に入れたものを出して、元の棚に戻してくれるって信じてずっと見てたんです。母校の生徒が万引きなんてするわけないって信じたかったんです。でも、彼は返さなかった。申し訳ない。彼を取り逃がしてしまう可能性だって、あったのに。本当に本当に申し訳ありませんでした」
瀬戸はまた深々と頭を下げる。
「許します。先生に免じて」
と、凛が厳かに告げる。
「ちょっと、先輩、それ僕の台詞ですよね?」
凛、山辺を見事に無視して、瀬戸にマリアのごとく微笑む。瀬戸も微笑み返し、二人の空気に山辺は反論するタイミングを失ってしまった。
「お騒がせいたしました。では、ご馳走様でした。おやすみなさい」
瀬戸は穏やかな笑みを残し、店を出て行った。
「信じてずっと見てたんです。(瀬戸の口ぶりを真似て言う)瀬戸先生ってば、どこまでも、誠実で素敵~!!!」
「そうですかね、別に普通の謝罪だし」
凛が目の前で手を合わせてうっとりとするのを見て、山辺は面白くなかった。
「なんか今日機嫌悪いね。何か悪いものでも食べた?」
山辺の顔を覗き込んで来る凛。
「別に。さ、帰るならさっさと帰ってください」
「はーい」
凛は返事すると、帰り支度をしてそれから、厨房でかたずけをしている山辺の首からエプロンを取った。
「?」
「手伝うって言ったでしょ」
凛はにやっと笑うと、腕まくりをして皿洗いを始めたのだった。
山辺はそんな凛の背中を見つめて口元が緩む。
やっぱり好きだなぁ。
凛は自分をいつも振り回して遊んでいるように見えるが、こういう風に言い出したことはどんな些細なことでもやる。そんなところが山辺は好きだった。
最初のコメントを投稿しよう!