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賢二医師と別れた後、一人病院の休憩所のベンチに座り、山辺は缶コーヒーを飲んでいた。窓の外には眩いくらいの西日が差している。
『公にはされておられなかったようですよ』
瀬戸が妻子がいることを公にできなかった理由とは一体…
そこまで考えた時、人影が山辺の前に立った。気が付くと先ほど珈琲を淹れに来た賢二医師の秘書の女性だった。女性は神妙な顔つきで山辺に話したいことがある、と辺りを気にするかのように告げた。
× × ×
女性は資料室の鍵を開けると、山辺を中に入れ、鍵を閉めた。そして山辺を資料室の奥にある小さなソファに座らせ、自分も横に座った。
「貴方は涼也君の事、調べているってことは警察の方と通じてるんですよね?」
「ええ、まあ」
「私、まだ刑事さんには言えてないことがあるんです。今回の事件の事ではないことなんですが」
「え?」
「さっきの舘野先生とのお話、実は立ち聞いてしまって」
「……」
「ごめんなさい。でも、あの、ずっと胸が痛くて、誰かに言わないといけない気がして、苦しくて」
「あの…」
女性は胸元を手で押さえていたが、意を決したように口を開いた。
「恨まれていたのは舘野先生の方です」
「え?」
「先生はかなり好色なお方で、お兄様の舘野社長の奥様と不倫関係にあります。好みの女性職員や時に患者さんにもそういう目を使われて」
「え?」
「私も誘われたことが何回かあります…彼がいるのではっきりと断りましたが」
「!」
「それで、時々、秘書室から聞こえるんです。舘野社長の奥様や他の女性が先生のところにいらして、その、そういうやましいことをされている声が。嫌でも聞こえて来て」
勤務中にそんな事をしていたのか…。紳士的でスマートに見える彼の裏の顔は色欲にまみれていたんだなと山辺は思う。
「それで、あの対談があってから一週間後に先生からある患者の担当医を自分に変えたいから診察予約を入れてくれと言われて、それが瀬戸さんの御子息のお名前だったんです。そして、その診察予約が入っていた一日前に瀬戸さんの奥様から先生宛に電話が入りまして、先生が今から診察すると急に言ってきて、その時私は不在だったものですから、先生は管理カルテの中からその御子息のカルテを勝手に持ち出されて診察に向かわれてしまって。でも、そのカルテは瀬戸さんの御子息のお名前と同姓同名で同年齢の全く別のお子さんのカルテだったんです」
「同性同名?」
「先生は間違ったお子さんの診察情報の載ったカルテを持って、診察に臨まれたんです…そのお子さんの診断名は重度の精神遅滞でした」
「精神遅滞…」
「重度の知的障がいです。そのお子さんはおそらく一生、親を認識することも難しく、発話も難しいだろうと言われてました。舘野先生はそのカルテを見ながら、瀬戸さんの奥様とご子息の診察をされてしまって、席に戻った私が気が付いて、急いで診察室に向かった時にはすでに奥様とご子息は車で病院を出た後でした。私は先生にカルテが間違いであることを告げると、先生は真っ青になって、奥様が残していた連絡先に電話を。でも、何度かけてもつながらなくて…やっとつながった時には奥様とお子さんは車ごと崖から落ちて亡くなった後だったんです」
「亡くなった…」
「無理心中でした。奥様が直前に瀬戸先生宛に送ってきたメールに書かれてあったそうです。明日の診察予約の日まで待てないから、舘野先生に急遽診てもらったが、心配していたことが現実になった。もう子供を育てていく自信がないと。奥様はお子さんが今の主治医から診断を確定するにはまだ時期早々であるから様子を見ましょうと以前から言われていたそうです。でもそれを不満に思っていたらしく、今までの主治医を変えて、名のある舘野先生にセカンド・オピニオンとして改めて診察をお願いしたいと急に頼んできたようなんです。主治医の見立てが間違いであると、診断して欲しかったのでしょうね。以前診察にいらした時、とても元気の無いご様子でしたから」
「先生はその間違いを瀬戸さんには?」
秘書は首を横に振った。
「お子さんがこの世にいない限り、それが間違いであったとは言えないと。だからこの事は秘密にするようにと念を押されました」
…そんな馬鹿な事があるか。
山辺は舘野賢二という人間が体裁を気にする哀れな存在に思えた。自分の立場を維持するためなら、真実を隠してもいいのかと腹の底からふつふつと憤りを感じた。自分でさえそうなのだ、もしこの事を瀬戸が知ったとしたら、どうするだろう。山辺は以前、瀬戸が自分に告げた言葉を思い出していた。
『僕には彼を殺そうとする動機が無いんですよ』
もし、瀬戸が真実を知っていたら、おそらく舘野医師に復讐する動機になると思えた。同じように一人息子である涼也を浚い、殺そうとした。自分の息子と同じ目に遭わせようと、首を絞めた。
でも、何者かが蘇生措置をし、涼也は一命を取り留めた。でも、結局彼は植物状態となり、今も病室で眠り続けている。重い障がいを背負いながら、父親からも兄達から見放されたように生きている。
でも、待てよ。もし、瀬戸が犯人だとしたら、家族に愛されていない涼也が亡くなっても復讐にはならないのではないか。現に涼也の元にお見舞いに訪れる家族はいないのだ。
復讐にならないと知った瀬戸は、次にどうするか?他の家族に危害を加えようする…?他に二人、兄がいると言ったな。それに妻の加奈子の存在もある。危害を加えようと考えるなら、この三人か。でも、実際にいなくなったのは凛で、それに関係している田中麻美は死んだ。
もう一度原点に帰ろう。もし二人が犯人の手によって危害を加えられたのだとしたら、犯人にとって凛と田中麻美の存在は邪魔だったということになる。なぜか?それは二人が犯人にとって都合の悪い存在だったということだ。
凛は今回の事件を追っていた。田中麻美は瀬戸の元恋人で瀬戸に最近フラれた。凛がいなくなって犯人として挙がるのは直前まで一緒にいた瀬戸、そして彼にアリバイは無い。
やはり、瀬戸が犯人なのか?
秘書と別れた後、山辺は「ロバの耳」へと車を走らせながら複雑に絡み合ってきた真実に繋がる一本の糸をあらゆる観点から考え、やはり聡子が調べたバーに直接行ってみようと妹に電話をかけた。
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