一目惚れは事件のはじまり

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外は思ったより涼しく、店を出た凛は上着を羽織ってくるべきだったなとぶるっと震えながら思った。その時、隣を歩いていた山辺が持っていた淡いベージュのニットカーディガンを凛の肩にふわりとかけた。小柄で身長153ほどの凛が長身の山辺を見上げると、山辺はあさっての方向を向いている。その頬がどことなく紅いのは気のせいか。 「ねえ」 「はい」 「ねえってば」 「何でしょう」 「近いからいいよ。山辺が羽織って」 と、凛はカーディガンを脱ごうとするから、山辺は慌てて止めた。 「着ててください。風邪ひかれても困るし」 「ひかないよ、返す」 凛はそれでも返そうとするから、山辺は凛の正面に回りカーディガンごと凛の身体をすっぽりと包むように着せてしまった。 「だから先輩はモテないんですよ」 「何よ、それ」 「男の好意をそうやって無にする」 黙っていれば可愛いのに、とちっちゃく呟いて山辺は行きますよ、とまた歩き出す。カーディガンを持ち出したのは外が寒かったら凛にはおってもらおうと持ってきたのだ。 そんな山辺の呟きは凛には聞こえていないようで、凛はカチンときた。 「無になんてしないんだから、今度は」 「え?」 「瀬戸さんが気に入ってくれた脚本、もっとブラッシュアップしていいものにして、見てもらうって決めたの!」 凛はいきいきとした顔を山辺に見せる。 「そうと決めたら、今晩から徹夜して頑張るよ!」 と、一人ガッツポーズを決める凛に山辺はため息をつく。 「あんまり無理しないでくださいね」 「瀬戸さんの好意を無になんてできるもんですかっ!おーし、やるぞ、やってやるー!」 凛は一人いきり立ってから、君の方が昔から病欠多かったよねとカーディガンを脱いで山辺の肩に伸びをしてかけると、さっさと歩き出してしまった。確かに山辺は幼い頃から体調を崩しやすい子供ではあった。同じ部活に入っていた時も季節の変わり目には必ず風邪をひきがちで学校を休んでいた。それを凛はちゃんと覚えているのだ。でも、でもだ。 「僕の好意は無にしてもいいんですね…」 その時、歩道のない車道の白線の内側を歩いていた二人の後ろからいかにも不良といった風情の若者の乗ったバイクが走って来た。山辺は咄嗟に凛の身体をバイクから守る。若者達は享楽的な表情を浮かべ、何やら愉し気に叫びながら前方へ走り去ってしまった。 「ったく、今どきの若者はぶつかりそうになっても謝らないってのが流行りなの?」 「…いや、流行りではないと思いますけど…」 山辺は凛を抱きしめる格好になっている自分に勝手に胸を躍らせていた。 「ねえ」 「はい」 「何、にやにやしてるの?」 山辺は凛に睨まれて、はっと後ずさるのであった。 やがて、二人は凛のマンションに着く。 マンションの窓は何軒か明かりがついていた。山辺は幾度かカフェに入り浸って遅くなった凛を送ったことはあるが、凛の部屋がどこかは知らずにいた。正面入口のオートロックシステムのその先まで行きたくても、まだそんな間柄ではないのだ。いつか近い未来、凛の部屋に招かれ、凛の手料理など食べて、それから…なんて勝手な妄想が走り出していた矢先、凛が山辺の袖を掴んだ。見ると、彼女は俯いていてその表情はよく見えない。 「ねえ…やっぱり今日、泊めてくれない?」 「へっ?」 「実は、今日夕方、仕事から帰って来た時、ネズミが出て。怖くって部屋にいられなくってカフェに来たんだ。だから戻るの怖くて。明日には帰るから、今晩だけ泊めて、お願い?」 山辺は夢じゃないかと思い、自分の頬を思いっきりつねってみた。 「痛っ」 「何やってるの?」 「い、いや、何でもないですっ」 「あの…だめかな?明日の朝の仕込みも手伝うから、ね?」 凛が片目を閉じて、哀願する様子が愛しくてたまらない山辺に断る選択肢があるはずはない。これは宿敵・瀬戸との闘いにおいて一気に自分に勝ちを引き寄せる絶好のチャンスだ、ここで男を見せないと後が無い。山辺はネズミがくれた好意を決して無にするまいと心に誓った。 そして、凛はいったん部屋に荷物を取りに行ってくるとマンションに入っていた。彼女を一人「愛の賛歌」を鼻歌で歌いながら待つ山辺の後ろを一台の車が走り去っていった。中には先ほど一冊の漫画本を万引きしようとした少年がトランクの中にさるぐつわをかまされた状態で乗っていた。その夜、静かに事件が始まったことを、まだ誰も気が付いてはいなかった。
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