Blue Hour

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「今日はあんま酔ってないんだね」 黙ったままでいると、謙太郎が笑った。 「会社の人と軽く飲んだだけだからな。一緒に飯食おうよ。奢るから」 「うん」 彼が隣に来て——竣は、自分の顎の高さにある後頭部を捉えた。 しばらく会わないうちに伸びた前髪や、首に巻きつけられたマフラーが、彼の細やかな表情の変化を隠してしまっていた。 思いつきで、予備校の前で待ち伏せしてしまったことを、謙太郎はどう思っているのだろうか————— 「どうしたの?」 「……こうやって横並びになって歩くの、久々だな」 「竣が隣にいるのは、大体が酔っ払ってつぶれてる時だもんね」 「そんなこと……」と言いかけて、竣は口をつぐんだ。 こちらが就職、彼が受験を機に揃ってアルバイトを辞めてしまってからは、隣に並ぶ機会もめっきり減っていた。 そして、竣が酔って潰れでもしない限り、謙太郎が自ら訪ねてくることはなくなった。 具体的に距離が開き始めたのは、夏頃だ———— 「なに食べたい? 焼き肉でも行くか?」 「いいけど、また飲むつもりでしょ。酔っ払ってもしらないよ」 「酔っても、お前がいるなら大丈夫だろ」 謙太郎は立ち止まってしばしこちらを見つめた後、白い息を短く吐き出しながら、仕方なさそうに笑みをつくった。 ——アルバイト先の先輩・後輩として知り合ったころはこちらに頼ってばかりだったのに、いつのまにこんな風に、呆れた顔を見せるようになったのだろう。 しかし竣は、だいぶ年下の彼から向けられるその表情が、嫌いではなかった。 「また介抱させる気? 俺、受験生だよ。そういうことは俺じゃなくて……」 言いかけて、彼はふたたび息を吐いた。 長くて細い、くすんだ色合いをもつため息だった。 「週末なのに、彼女は……泊まりに来ないの?」 「ああ。今日は向こうが夜勤だから。明日の夜から会うことになってるけど」 謙太郎は返事の代わりに何度か小さく頷いて、それから一歩前へと出た。 彼のまわりを、分厚い雲がふたたび覆う。 それは受験生特有のそれと限りなく近いようで、まったく別物の———例えていうのなら黒とネイビーのような違いがあった。 そして、彼の沈鬱が何に起因するのかは、とっくにわかっていた。 竣は歩幅を広げて彼の真横に並ぶと、彼に肩をぶつけた。 「謙太郎」 「……なに」 「飲んでいい?」 謙太郎は呆れたように笑ったきり、もうなにも言わなかった。
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