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「ただいま」 野菜を切っているところで、父が帰ってきた。 いつものようにジャケットをハンガーに掛けると、三月のほうへと回り込んでくる。 珍しく、手にはお土産らしき紙袋を下げている。 「何それ」 「萩の月。仙台からお客さんが来て、お土産にもらった」 やっぱり貰い物か。 刻んだ玉ねぎをざるに移しながら、三月は鼻で笑った。 気の利かないこの男が家族のためにお土産やプレゼントを買ってくることなど、皆無に等しい。 「なんだ」 ニヤついているのがバレたらしい。 父はネクタイを緩めながら怪訝な顔でこちらを見ている。 「いや、父ちゃんさ、今までの人生で誰かにお土産買ってきたこととかないでしょ」 「バカにするな。あるよ」 「へえ、誰に? お母さん?」 少なくとも、自分にではない。 ニンジンの皮をピーラーでひらひらと削ぎ落としながら、父に視線を移してみると、彼はしばらく考え込んだのち 「謙太郎……。京都だか奈良だかなんかの土産に、キーホルダーを……あげたことがあったかもなあ」 「ほんとかよ。いつ?」 「……学生の時」 俺が生まれる前かよ。 三月は吹き出したかったが、父が拗ねて面倒なことになるので黙っていた。 笑いで震えそうになる口元を隠すために、わざとらしい口笛を吹いてごまかす。 父はさほど気にせず、三月の手元を覗き込んでいる。 「今日は早いんだな。謙太郎のところへは行かなかったのか」 「うん。まーね」 「お前、制服くらい脱いだらどうだ。油とか調味料がシャツに飛ぶぞ」 「着替えちゃうと、家事すんのだるくなるからいいんだよ」 父はそれについては何も言わず、そのままソファへと移動すると、どっかりと腰掛けながらスマートフォンをいじり出した。 人には忠告するくせに、自分も結局、スーツのままくつろいでいる。 「そういえば、またシャツまで乾燥機にかけただろ。アイロンめんどくさいんだから、ちゃんと分けろよな。あと、柔軟剤! 入れるの忘れすぎなんですけど」 三月の忠告もむなしく、父からは「ああ」「うん」などの空返事しか返ってこない。 依然として画面を凝視しているその姿を呆れ気味に眺めたあと、手元に視線を戻した。 最近は、眉間に皺を寄せながらスマートフォンをいじる時間が増えたように思う。 まるでおもちゃを与えられた猿のように、たどたどしく指を動かしては、時折顔をほころばせる。 ゲームやネットなんか一切しない父のことだ。 画面の向こうに、父を引きつける誰かが潜んでいるのは明らかだった。 ここ最近、土日のどちらかは必ず出かけていることや、金曜の夜は帰宅が深夜になることなどが、それを裏付けていた。 「手伝おうか」 思いついたように首を伸ばして、一応気遣いを見せるが、相変わらずスマートフォンは手にしたままだ。 「いいよ。あとルー入れて煮るだけだから」 「シチューか?」 「いや、カレー」 鍋にふたをして、キッチン越しから父の姿を再び見た。 体よりもやや大きめのワイシャツや床屋でろくに注文もつけずに切った短髪が、精悍な顔立ちを野暮ったく見せている。 柔らかく笑うことを知らないこの男は、一見、神経質そうに見えるが、素顔は案外ずぼらで、下着やシャツを裏返しに着ることも日常茶飯事だ。 三月が割と几帳面な性格なのも、この見かけ倒しのハリボテのような男を反面教師にしたからなのかもしれない。 「だっせえなあ。そのネクタイ、どうにかなんないの」 中途半端に緩められたまま、胸元で揺れている趣味の悪いそれは、たしか出張の日に寝坊をして、朝、慌てて駅の売店で購入したものだと聞いた。 それをそのまま常用しているのだ。 ダサいと言われても、父は気にするそぶりも見せなかった。 「いいんだよ。おっさんなんだから」 三月にダサいと言われる度に出る、父の口癖。 数日前、同じような台詞をタロの口からも聞いた。 「父ちゃんさ......少しはタロを見習ったら」 「謙太郎? あいつは例外だろ」 「例外ってなんだよ」 「年齢不詳だろ、昔っから。しゃべり方も存在感も独特で、ミステリアスだから」 「俺は、雰囲気の話をしてるんじゃなくて、服装の話をしてるんだけど」 「だから。あいつだから似合うんだろ、ああいう服は。俺が同じ格好したらお笑いだ」 三月はなにも言えなくなってしまう。 タロの服装はシンプルで、決して奇抜ではない。 ただ、細身のシルエットのパンツや、胸元に遊び心のある刺繍を施したシャツを父が着用しているところを想像すると、チンドン屋崩れのようで滑稽だった。 「ちょっと一度着てみてよ。面白いから」 父は、三月のじゃれつきに取り合うこともなく、左手で乱暴にネクタイを外しながら、首を回した。 ひどく不自由そうにしながらも、やはり、右手のスマートフォンは離さない。 「ねえ、タロってさ、彼女とかいないのかな」 言いながら、今日、すれ違った女性のことをふと思い出した。 小さくて可愛らしくて、まさにタロにお似合いだった。 「さあ。あまりそういう話しないから……。おい、なんか焦げてないか?」 「あ、やべ」 室内にこもる匂いに、慌てて腰を上げた。
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