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「ね、しっかり立って」
困ったような声が耳に滑り込んできた。
アパート前まではタクシーで移動したにもかかわらず、短い階段を登り切る頃には、謙太郎の呼吸はすっかり荒くなっていた。
肩を担がれ、彼の首筋に自身の頰がふれる。その体温は高く、うっすらと汗ばんでさえいた。
なんとかして室内に入るが、靴底でフローリングを蹴る音に反応したのか、謙太郎が声をあげた。
「ほら、靴抜いで……」
ため息混じりに靴をむしり取られる。
ようやく部屋の中央まで来ると、自身を支えていた彼の手がふっと離れ、そのままベッドの上に倒れた。
ひんやりとしたシーツの感触が、熱った頬にぶつかり、心地良い。
「ジャケット、脱がないとシワになるよ。ネクタイも……」
言っても無駄だと踏んだのか、言いかけた言葉は途中でため息に変わってしまった。
ふと彼の気配を遠く感じて、薄く目を開くと、彼はまだコートを着込んだまま、その場に立っていた。
「……なんで立ったままなんだ」
「なんでって、明日も予備校だし」
「帰るつもりか」
謙太郎は両手を組んだまま、しばらくこちらを睨んだり、壁時計に目をやったりした。
「何度も言うけどさ、俺、受験生なんだよ。今はもう大詰めで……」
「それは知ってる」
言いながらも、牽制するような視線を投げかけると、彼はまた、ため息をひとつ吐いた。
それを受け取るなり竣は安堵して、寝転んだまま壁際に寄り、そっと目をつぶった。
やがて、彼の荷物が床にぶつかる鈍い音に続いて、衣類の落ちる、微かな音がした。
コートを脱いだのだろう。
しばらくして、ベッドが軋み、自身の体が微かに盛り上がる。
うっすらと目を開けると、謙太郎はこちらに背を向けて寝そべっていた。
綺麗な彼のうなじを眺めていたら、竣をふたたび眠気が襲った。
「しばらく仮眠したら、家帰るからね」
「うん」
「それとベッドのシーツ、起きたらちゃんと洗濯しなよ。シャワーも浴びてない男2人が寝たシーツのままじゃ、彼女に悪いから……」
それにはなにも答えずに、首筋の付け根にあるほくろに視線を移した。
そして、短い襟足の毛束を摘んで、ゆっくりと撫でてやる。
こちらが触れても謙太郎は反応しなかったが、首から肩にかけて力が入っていることは明らかだった。
その丸まった小さな背中を見るたびに、逡巡した。
謙太郎が後ずさるようにしながら徐々に距離を取り始めたのは、夏頃、竣に彼女ができてからだ。
そんなことは竣にとって、たいした問題ではなかった。
それはそれ、これはこれ。
彼女の存在が、謙太郎と自分の関係を脅かす理由にはなり得ないと思った。だって彼と彼女は、別の箱に入っているのだから————
しかしそれは、甘えだったのだろうか。
彼はいまなにを思っているのだろう。どういう気持ちで、こちらに背中を向けて寝ているのだろう。
そのまま後頭部をひと撫ですると、竣は彼に背を向けて目をつぶった。
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