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「三月、起きないと遅刻するぞ」
突然、扉に父の声がぶつかった。
すぐそばに気配が感じられないから、玄関から叫んでいるのだろう。
「パンあるから。あとお昼代も置いてある」
三月の返事を待たずに続く父の声が、玄関の重厚なドアを開ける音とともに響く。
外から鍵をかける音が鳴ると、再び静寂が訪れた。
静けさのなかに、洗濯機の唸る音だけがうっすらと聞こえてくる。
きっと、父のことだから、また柔軟剤を入れ忘れているに違いない。
トイレ掃除をさせればトイレットペーパーの引く側が裏になっており、味噌汁を作らせればきちんと切られていないネギが中途半端につながったまま、椀のなかで沈んでいる。
それが父にできる家事の限界だった。
さっき自分を呼ぶ声に混じって、ビニール袋の擦れるような音がしたから、燃えるゴミは出してくれたのだろうが、そのなかにはどうせ、不燃物も混じっているのだろう。
一度、大家に注意されたくせに、父は未だにゴミの分別すらまともにできない。
寝起きに生じたあみへの憂鬱は、父の声を合図に所帯染みた悩みにみるみると飲み込まれ、5分と続かなかった。
母が生きていたら、もう少しこの、思春期特有の懊悩に浸っていられたのかもしれない。
洗濯機が乾燥モードに切り替わる音を拾い、目を閉じた。
リビングの光景は簡単に想定できる。
テーブルに置かれている、袋に入ったままのパンと、昼食代。
カーテンが閉まったままの、薄暗い部屋――――
7時半を告げる携帯電話のアラーム音で、ようやく首を起こした。
床には、まだ中途半端に色をつけた状態のスケッチブックが転がっている。
近くの高台から見下ろした街をスケッチした風景画だ。
踏まないように大股でステップを踏んだ。
今日か明日には完成させたいな。
制服をハンガーごと手に取ると、乾燥機にかけすぎてすっかり毛玉だらけになったTシャツを脱いだ。
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