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35歳の男性の平均像というものが、三月にはさっぱりつかめない。
学校の教師や、電車で乗り合わせるサラリーマンを見る限りでは、中年に片足を突っ込んだ年齢なのだなと思う。
しかし、タロ――末永謙太郎を目にした途端、その概念はいつも吹き飛んでしまうのだ。
「みっき、待ってたよ」
錠を外し、部屋の中から顔を覗かせたタロは、ボーダーのシャツに、くるぶしで折り返したチノパンという出で立ちで、一見、大学生のようでもある。
タロは三月の首筋や額を一見し、小首を傾げた。
「雨、降ってきたの?」
「降ってない。これ、汗だもん」
「そんなに急がなくてもよかったのに」
汗を手の甲で拭う三月を見て、笑う。
目を細めると、もともと面積の少ない白目の部分は下瞼に押し上げられ、完全に見えなくなった。
「相変わらずこの家、天井低いね」
やたらと天地の低いタロの部屋は、一歩足を踏み入れると、自然と前屈みになる。
身長が180㎝ある三月にとっては、窮屈な水槽に押し込められているような、妙な圧迫感があった。
「みっきがでかすぎなんだよ」
一方、三月の顎くらいまでの背丈しかないタロは、この空間にしっくりと馴染んでいた。
用意してくれたスリッパを突っ掛け、リビングへと足を踏み入れる。
久々に訪れたそこは、相変わらず清潔で、そして物が少なかった。
今日、バイトしない?
そうタロから連絡があったのは、ちょうど午前の授業が終わったころだった。
二つ返事で引き受け、ホームルームが終わるなり、あみから逃れるように教室を飛び出してきたのだ。
昼過ぎから出た陽が、ぐんぐんと冷気を吸いあげたせいか、ほんの15分、ペダルを漕いだだけで、背中や首筋を汗が伝った。
シャツを摘んで扇ぎながら、ソファへと腰掛ける。
「で、今日は何すればいーの」
「とりあえず、画像の切り抜きを20点くらいお願いしたいんだけど」
画像の一覧を印刷した紙には、コーンにのったアイスクリームの画像が整然と並んでいた。
ブックデザイナー。
それが、タロの肩書きだ。
長年勤めていたデザイン事務所から独立し、フリーランスになったのが5年前。
主に書籍や雑誌、ムックなどの表紙や誌面レイアウトなどを手掛けている。
タロの手にかかると、シンプルな写真や味気ないテキストがたちまち躍動し、紙のなかで独特の雰囲気を作り出す。
デスク横にある、これまでの実績物を収納している本棚は、中高年層向けの一般誌から書籍、女性向けのムック、また児童向けの参考書まで、それぞれ異なる雰囲気のもので埋めつくされている。
タロのもつ発想の豊かさや柔軟性、センスの良さは、それらを手に取るだけで容易にわかった。
スピードは速く、質は落とさない。
それが仕事においてのモットーだという。
企画趣旨や原稿があればその内容をじっくりと読んでから全体のイメージを決め、クライアントに提案する。
写真の配置や文字の間隔にしたって、0.5㎜以下のズレも見落とさない。
クオリティを維持しながら、かなりの仕事量をたったひとりでこなしているのだ。
それでも、あまりにも多忙を極めると、今日のように三月がアルバイト要員として招集されることがあった。
「アイスクリームの本なの?」
「そう。アイスクリームのお店の特集」
「今更じゃない? 夏にやればいいのに」
「ね。ただでさえ寒くなってきたのに、朝からアイスばかり見てて、手足が冷えてくるよ」
タロは微かに肩を上げて寒さを表現すると、三月のために入れた麦茶をテーブルに置いた。
抑揚のない口調のせいなのか、下がった目尻のせいなのか。言葉とは裏腹に、辛そうには見えない。
しかし、いつもならダラダラと続く世間話を、今日に限っては早々にカットし、向かいの作業用デスクの椅子に腰掛けてしまうあたり、余裕がないのは事実なのだろう。
バイトの業務内容は雑用全般だ。
今日のように写真素材を画像加工ソフトでトリミングする作業が多くを占め、ほかは資料の整理や電話の取次ぎ、出版社におつかいに行くこともある。
給料は作業量によってまちまちだが、家庭でアルバイトを禁じられている三月にとって、それは割のいいアルバイトでもあったし、それに、手先を使う仕事自体は嫌いではなかった。
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