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ドアを開けると、タロの白いスニーカーの横に、黒いローヒールパンプスが並んでいた。
靴が思うように脱げず足首を振っていると、襟足あたりにタロの声が降ってきた。
「みっき、いらっしゃい」
顔を上げると、見知らぬ女性が立っていた。
「じゃあ、また。よろしくお願いします」
タロに挨拶をすると、三月に軽く頭を下げて、パンプスに足を入れた。
歳は20代半ばといったところだろうか。
小柄で、黒いボブヘアーがよく似合っている。
すれ違ってわき立つ、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
ドアが閉まるのを待ってから、タロの方を見やる。
「……今の誰?」
「ああ、出版社の人。打ち合わせしてたの」
かわいいじゃん。
そう言おうとしたが、やめておいた。
ふうん、と相槌を打ちながら鞄をフローリングに置く。
その、いつもよりやや乱雑な音を拾うなり、タロは覗き込むようにして三月を見た。
「みっき、どうした?」
「なにが」
「なんか、機嫌悪いみたい」
いつも通りにしていたつもりなのに、どうしてわかるのだろう。
ずばり言い当てられたことによる気まずさで、顔を上げたときの視線の位置はタロ本人ではなく、着ているシャツの、胸ポケットに合わせた。
「父ちゃんと喧嘩した」
「なんで?」
「勝手にバイトの面接に行ったら、激怒された」
半ば倒れ込むようにソファに腰掛ける。
指で眉間を揉むが、凝り固まった怒りはなかなか緩和しなかった。
父に内緒で焼き肉店に面接を受けにいったのは、先週のことだった。
結果は週明けに連絡します、という言葉通り、昨日の夜7時過ぎに採用の連絡が来たらしい。
らしいというのも、その電話をとったのは父で、そのころ三月は、天井の低いこの水槽のなかでアイスクリームを睨んでいたからである。
むろん、三月は父が電話をとるなどという展開は予想もしていなかった。
一日のノルマをこなして帰宅するなり、すごい剣幕で怒鳴られて、拍子抜けしてしまったほどだ。
履歴書にあった連絡先の記入欄には、念のため自宅とスマホ、両方の番号を記しておいたが、まさか自宅のほうに採用連絡の電話がかかってくるとは、思いもよらなかった。
「あいつ勝手に断ったんだよ。まじありえない。第一、なんでバイト駄目なんだよ。なら小遣いもっと増やせっつーの」
三月の通っている都立高校は校則が緩く、バイトが禁止されているわけではない。
自分の小遣いを自分で稼ぐことが、なぜいけないのか。
それに対して怒られることが理不尽でならなかった。
「バイトなんて、大学に入ってからすればいい。今はもっとほかにやることがあるだろう!」
眉間に皺を寄せ、昨日の父の口調を真似てみるが、まったく愉快な気持ちにはならない。
一方、タロは椅子に逆向きに座り、その背もたれに頬杖をつきながら、ゆっくりと左右に揺れている。
三月への同調も、父へのフォローもなく、似ていない物真似にただ微笑んでいるだけだ。
もっとも、彼がどちらの味方もしないのは、いつものことだった。
「勉強しろってうるせぇんだよ。したところで、どうせバカ校なんだからさー。金稼いだほうがよっぽど有意義だと思うわ」
「みっきは、ほしいものあるの?」
「ほしいものっつうか……」
もちろん、たくさんある。
洋服、新しい財布、友達と遊びにいく資金、画材。それになにより。
「あみが、あれ欲しいこれ欲しい、ディズニー行きたいってうるせえんだよ。電話もしないと拗ねるしさ。真剣に金が足りない」
そのひと言に、タロが目を細めて笑った。
拳を当てた頬が、こんもりと盛り上がる。
「愛されてるねえ」
タロの言葉に、思わず首を傾げてしまった。
愛されて、いるのだろうか。
お揃いがほしい、二人乗りがしたい、毎日電話がほしい。
彼女が求めているのは、彼氏というブランドによって手に入れることのできる安心感と優越感で、それさえ満たすことができれば、その実体そのものなんてどうでもいいのではないだろうか。
自分はきっと、あれだ。
あみが周囲に「彼氏がいて、幸せです」というアピールをしたいがためにあてがわれたラッピングカーのようなものなのだ。
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