十、運命の日

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 部屋に帰ると。 「ただいま」 「おかえり」    慧は平然とソファーに腰掛けていた。その前には、玩具を咥えて尻尾を振るジスランの姿。遊んでもらっていたのかご機嫌だ。 「どうだった?」  尋ねながら慧の隣に腰掛ける。 「村越先輩と清次郎先輩のサインもらって、さっき無事に提出してきた。これで正式にまた先端技術科の寮生だ」 「そっか、良かった」 「そっちは?」 「玲央と尚人に心配かけた事は謝ってきた。で、これ工藤先生からだって」  そう言って封筒を取り出すと、慧は不思議そうな表情を浮かべた。 「何だそれ?」 「ちょっと待ってね」  封筒を開けると、出てきたのは小さなSDカードだ。パソコンで読み込むと、音声ファイルが現れる。 〈結坂さん。もしかしたら一条君も一緒に聞いてるかな?〉  いつも通りの工藤先生の優しい声が流れた。 〈まずは本当にありがとう。君達のおかげで妹にまた会う事ができた。感謝してもしきれないよ。僕らは昨日学園本部に呼ばれて、そこで美紗に再会したんだ。最後に見た時よりも大きくなって、綺麗になってた。だけどね、元気な笑顔はもうどこにもなくて、ずっと何かに怯えてるんだ〉  工藤先生はそこで一度言葉を切った。数秒間の間ができた後、またかすれた声で話し出す。 〈僕は学園を辞める事にしました。君達を送り出す事なく、直接お礼も言わないままに辞めるのは申し訳ない。だけど、ここから離れて何もかも忘れて、ゆっくり妹の心を取り戻したいと思う。本当にごめん。そして、本当にありがとう。君達の担任になれた事を誇りに思います。……元気で〉  そこで音声は終わった。 「……良かったな」  慧はポツリと溢した。 「うん……」  それ以上、言葉が見つからない。  良かった。でも良くなかった。嬉しさと悲しさと恐怖、色んな感情が混ざり合う。  お互い何も言わず、ソファーに身を任せた。    そんな時だ。 〈やっほー! 叶彩花です〉  終わったと思っていたファイルが再び音を紡いだ。飛び跳ねるように体を起こす。 〈彼方はもう美紗ちゃんのところに行っちゃったので、ここから先はオフレコです。きっと一条君もいるよね。二人共、本当にありがとう!〉  顔は見えないけれど、声は弾んでる。叶先生の笑顔が頭に浮かんだ。 〈私も彼方と美紗ちゃんと一緒に行く事にしたの。遠くで仕事見つけて、三人で生きてくつもり! 保険医の資格あれば何とかなるでしょ! 私達も頑張って今度は美紗ちゃんの笑顔を取り戻すから、結坂さんと一条君も、これからも笑ってしっかり生きていってね! 絶対よ!〉  その声には力があって、こっちまで笑顔になった。だけど、叶先生は今までと同じ明るい声で続けた。 〈生徒に言う話じゃないと思うけど、二人には私達の関係、どう写ってた? 私達、ただの腐れ縁なの。ほんとは一瞬恋人みたいになりかけたけど、美紗ちゃんを奪われてからはとにかく美紗ちゃんを見つける事に必死でね、お互い恋愛感情はいつの間にか昇華しちゃって、情だけが残っちゃった。二人は大事な人の手を絶対に離さないで。手と手を取り合って、並んで生きてくのよ? いなくなってから後悔しても遅いんだから! お互いが大事で仕方ないくせに焦れったいんだもん! じゃ、バイバイ!〉    音声ファイルはそこで今度こそ終わった。  自然とお互いの手が触れ合って、重なる。そのまま手を取られて引かれると、肩と肩との距離もなくなった。  心臓の音は少し煩いけれど、嫌な音じゃない。こうしていられる事が嬉しくて、安心する。 「……ねえ一条」 「ん?」 「おかえり」 「ああ、ただいま……」  近づく顔に驚いて。そして、ゆっくり目を閉じた。
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