326人が本棚に入れています
本棚に追加
/114ページ
04聖人の裏切り
「ありがとうございました」
悠真は自らオフィスのドアの前に立ち、クライアントの三十代夫婦を見送った。
「真奈ちゃん、こっち片付けて」
穂積が客用のコーヒーカップを指差して真奈を呼ぶ。消え入りそうな声だったけど、「はい」という返事が確かに聞こえた。悠真と穂積は思わずアイコンタクトを送りあう。真奈の小さな進歩を密かに喜んだ。
打ち合わせスペースは、サンプル素材やカタログで埋もれていた。今日の面談はキッチンと照明の打ち合わせだった。
(もう一息だな)
細かな打ち合わせは、実施設計のための大事な行程である。
簡単に説明すると、基本設計は間取りなどの大まかなもので、実施設計は工務店が工事をするための詳細なものである。実施図面を起こすためには、キッチンや照明などの設備機器や、庭などの外部仕様まで、すべてを決めてしまわねばならない。
悠真はサンプルを手に取り、「やっぱりこっちか」、とつぶやいた。キッチンの天板はクォーツストーンに決まった。高級感があり扱いやすいことで人気の水晶天板だ。ショールームに出向き実物を目にしたところ気に入った、と言っていた。
設計打ち合わせはクライアントによって様々で、全部おまかせという場合もあれば、強いこだわりを持って何度も話し合いを重ねることもある。
「この坪数でアイランドキッチンねぇ」
穂積は渋い顔をしていた。アイランドキッチンは場所をとるため確かに窮屈になるだろう。しかし、人を呼んでパーティーを開きたいというのがクライアント夫婦の希望である。
「圧迫感が出ないよう、縦方向に空間を広げるか」
「建築士は魔術師じゃないぜ」
「それはそうだけど」
完璧な家は存在しない。落とし所というのは必ずあって、クライアントの要望がなにもかも叶えられることのほうが稀である。だとしても。
どこにでもあってどこにもない家を目指すのに妥協はしない。完璧ではないかもしれないが、限られた条件の中で最高の家にすることを諦めないと悠真は決めていた。
「夢を叶えるのが腕の見せどころだろ?」
「久我には建築の神様がついているもんな」
「また神様?」
「運がいいってこと」
穂積が微妙な顔をする。
(たぶん、あのことだ)
悠真には、穂積が何を言いたいのかだいたい見当がついていた。これからチェックに向かう現場の話だ。クライアントは一癖も二癖もある人物だった。
最初のコメントを投稿しよう!