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【-1-】
鎧戸の隙間から差し込む朝日に目を射られ起き上がったジスは、はてここは何処だったかなと辺りを見渡した。
古ぼけた板張りの天井、四方に迫る壁。狭い部屋――どうにも記憶が繋がらず、ジスは戸惑ってがしがしと頭を掻こうとする。
けれどその指先は頭に当たる前に、妙なものに触れて止まった。
「……?」
短くて柔らかな毛がびっしりと生えた何か――指先はその何かに触れているが、同時に、その何かも触れる指先の感触を感じているのだった。
「うぉぁぁぁぁああ⁉」
嫌な予感に、慎重さをかなぐり捨ててそれを両手でわしづかみにしたジスは、次の瞬間野太い雄叫びを上げた。
「おぉぉ俺にうさみみが生えてるぅぅうう――――⁉」
――ジス・ヤーン。28歳にして獣兎神の神子になる。
「な・なんだ魔物の襲撃かッ⁉」
「げふッ⁉」
ジスが叫んだ途端にその横合いから身を起こした影がある。それは敏捷にベッドを転がって跳ね起きると、ジスを庇うかのように腕を突き出した。ちょうどベッドから降りようとしていたジスはそこに突っ込む形になり、運悪く自分自身で肘鉄を決めてしまう。
「あ」
「ちょ……っ」
咳き込みながらベッドに倒れたジスは、涙の滲んだ赤い瞳をその影に向けた。部屋が暗いのであまり良く分からないが、体格の良い姿だ。張りのある声は若そうでもある。
「ぅうッ、お前、誰――?」
「ジス大丈夫か⁉」
身をかがめてずいと顔を近づけて来た影に、ジスは「ああッ⁉」と声を上げた。
「思い出したお前昨日一緒に飲んでた狼の神子――!」
九柱の獣神が守護する九つの国。
そこに住まう民は毛のない身体とすらりと伸びた手足と丸い耳を持つ人間たちである。だが稀に、獣の特徴を身に持つ人間が存在する。彼らは獣神の加護を受けし愛し子――神子と尊ばれる者たちであった。
ジスは昨日まではただの人間だった。普通に丸い耳を持ち、頭上にうさぎの耳など生えていない、ただの人間だったのだ。
それが一夜にして。
「本当に生えてる……」
鎧戸を開け放ち鏡に己の姿を映したジスは、呆れきって大口を開けた。
「しかも動くんだぞ。当然元の耳は消えてるし」
横合いから口を挟むのは、シュタークという傭兵だ。昨夜酒場で出会って意気投合し、酒の勢いで一夜を共にした。ジスが彼と寝たことに深い意味はなかったが、強いて言えば彼の容姿の好ましさと神子であることへの珍しさからだった。
シュタークは、狼の耳を持つ青年である。つまりは彼は、獣狼神の神子なのだ。
それがまさか、一夜明けると自分までもが神子になっていようとは。
「耳⁉ 本当だ、耳消えてる! うわー……あるはずのもんがなくなってつるっとしてるのって気持ち悪いなー……わー……んでうさみみはびったんびったん動くしなんだこれ触手か」
「……わざわざ気味の悪い方向に例えんなよ」
「悪趣味に表現しないとやってらんないくらい現実が受け入れられないんだよ。だって俺、あと二年で三十のおっさんだぜ? それが今更かわいこぶったうさぎの耳とかつけちゃって、どーしろっての? この耳に見合ったかわいさなんか今更身につかねーよ」
「――何を言っているか分からん」
「要するにうさみみ生やして良いのはかわいい女だけだって事だよ!」
獣神の加護は生まれながらの場合もあれば、ジスのように人生半ばにして現れる事もある。加護を与えられた人間の身体には与えた獣神の特徴が現れる。ジスの場合はうさぎの耳であり、シュタークの場合は狼の耳だ。獣鷲神の加護を得た場合は翼が生えるというが、ジスは鷲の神子には出会った事がない。
「それに、……それになあ、お前知ってるか? 獣兎神の加護!」
ジスは鏡越しに狼の神子を睨んだ。健康的な浅黒い肌に黒檀のようなつややかな髪をもつ青年は、鏡の中で困ったように視線を泳がせた。
「――知らないはずないだろ。獣神の加護の中で一番有名だろうが……」
「有名だろうと聞いてくれ! 叫ばずにはいられない!」
ジスが大きく息を吸い込むのに合わせて、シュタークは狼の耳を伏せていく。
「俺が妊娠出来るってどういう事なんだよ――――!」
そう。獣兎神の加護は『受胎』。男女へだてなく妊娠出産が出来る能力であった。
「なんや大騒ぎしてると思ったけど、本当に耳はえてますなあ」
なにはともあれ腹ごしらえをと宿の食堂に移動したジスとシュターク。事情を説明された宿の主人と女将は、戸惑いと好奇心と誇らしさがない交ぜになった顔つきで二人を見比べている。
それはそうだろう。
人生で神子を見ることだってあるかないかなのだ。なのに今、神子が二人も目の前に居るのである。
「とりあえず今日の飯代はこちらもちで良いですわ。ええもん見せてもらいましたし」
主人は神妙な手つきで二人の前に朝食を奉じ、カウンターの裏で女将となにやら話し合う様子であった。そして二人の食事が終わった頃に出てくると、
「ジスさん、あんた王都に行かなあかんのわかってますか?」
と心底心配そうに訊ねて来たのである。
「あー……」
生返事をするジスの顔には『知っていたが忘れていたかった』と書いてある。
ここは獣兎神が守る国ラケル。その王都ラルストには獣兎神を祭る神殿があり、兎の神子たちは通常、その神殿で生活をするのだった。
「なんだ? 兎の神子は神殿に登録でもしなきゃいかんのか?」
他国からの旅人のシュタークが首を傾げる。
「いえいえ……ほら、兎の神子さま方は加護が特殊でしょ? 加護を狙って、跡継ぎに恵まれない方々に狙われることがおありでして……」
『受胎』は単に男でも受胎可能になるだけでなく、その受胎率も引き上げる。その為、何としても血統を繋ぎたい王族や貴族から引く手あまたであり、またその為に闇ルートから〝商品〟として狙われがちなのが兎の神子なのだった。なので神殿は神子を保護している。
「……なんとかこの耳を隠して今まで通りの生活できねーかなー……」
ぼやくジスの生業は、農耕具研ぎ師だ。ラケル国内の農村を巡り歩いて、農民達の農耕具を研いで回る。長く旅を続けるうちに研ぎだけでなく修繕なども請け負うようになった彼は、農村では非常に重宝される存在だった。一年か二年おきに訪れる彼を覚えていて手厚く持てなしてくれる農民たちも多い。一つ所に落ち着かぬ、根無し草のような生活ではあったが、ジスにとっては非常に居心地のいい暮らしなのだった。
神殿に入るとなれば、それを辞めなければならない。
それは彼自身にとって窮屈である以外に、彼の訪問を待っている農民達にとっても痛手となる。
「奴隷商人達にとっては格好の餌食になっちまうからお辞めなさいな。わしらあんたにそんな目に遭ってほしぃないですわ」
そんな風に言う宿の主人がジスを見る目には、情が滲んでいる。
ラケル辺境の宿場町のこの宿はジスの定宿で、お互いの親が生きている頃からの長い付き合いだった。その彼にそこまで言われてしまえば、ジスとしても押し黙るしかない。
「そこでシュタークさん、お願いなんですが……」
ジスの沈黙を肯定と判断した主人はシュタークに向き直ると、彼に向けて銀貨を一枚差し出した。シュタークは灰色の目を見開いてそれを見つめる。庶民が気軽に出してくるような金額ではなかった。
「これでジスさんを王都まで守ってくれちゃ、しませんかね。あなた旅の傭兵だっておっしゃっていたでしょう? どうか宜しくお願いします」
「いやいやいや、そんなの俺自身が出すし」
慌てたジスが立ち上がれば、主人はそのジスを押しのけてシュタークに銀貨を握らせる。
「ほぼその日暮らしがなに言ってんのや。これはジスさんの親父さんにお世話になったお礼や。あんたは放っといたら自分の事は適当にすませてしまうやろ。それでどっかで危ない目に遭われたら、こっちの寝覚めが悪い」
「だけどそんな大金……!」
「――俺の値はこんなもんだな」
主人の手から銀貨を受け取ったシュタークは、かさついた手に銀貨半分の釣りを戻してやる。
「引き受けよう。ラルストの神殿まで、ジスを無事に送り届けるよ」
「おお。ありがとうございます。宜しくお願いします……!」
主人と女将は二人に昼飯の弁当まで用意してくれ、それを懐に、ジスとシュタークは宿を発った。
目指すは兎国ラケルの都ラルスト――徒歩ならば十五日前後の旅程である。
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