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【-2-】
時は少し遡り、出発前の事である――。
宿を出る前に部屋で身繕いを整えていたジスは、鏡の前で耳を押さえたり折ったりしていた。
すでに準備万端なシュタークは、ベッドに腰掛けてジスを待っている。ジスが何を考えているか彼にはお見通しだが、口で言った所で納得しないだろうと見守っているのだ。
「帽子やフードで隠すべき……だよな」
ぶつぶつ言いながらキャスケットを出して来たジスは、耳を押さえ込むようにそれをかぶってみる。が、キャスケットはジスの頭に到達することなく、以外と力強いうさみみに跳ねられて宙を舞った。
「……」
ぼすっと音を立てて床に落ちたキャスケットに凍てつくような視線を投げるジス。シュタークは苦笑を隠しつつそれを拾い上げ、その間にジスは外套を身に纏っている。そして、その外套のフードを先程よりも慎重に頭に被せていった。今回は耳そのものにも力を入れているのか、耳は頭の輪郭に添うている。
鏡の中の己を見つめるジス――そこに映っているのは、草色の外套を頭からかぶった、濃茶の髪に赤い瞳の平凡な男だ。頭にかぶった外套もつるりと丸く、どこにも非凡なところはない……とジスが悦に入って唇をひん曲げた瞬間に、彼の頭が上方へと伸びた。
「ぎゃ……!」
フードの中でビンッと立ち上がった耳に外套を押し上げられ、緩んだ襟元が顎を越えて鼻先までをうずめてしまう。息苦しさにもがいたジスは、むしり取った外套をべしっとベッドに投げ捨てた。
その外套を拾って畳んでやるシュターク。その彼に気づきもせずに、ジスは今度は大判のストールを取り出している。外套と似た暗色の布だ。寒い時に外套の上から首に巻く用途なのだろう。それをジスは、力を入れて寝かせた耳の上に被せ、頭に沿ってしっかりと巻き付けていく。耳がはみ出さないように慎重に固く巻き付け、その端をうなじで縛る。
「これでどうだ!」
見事に隠されたうさみみ。きつく押さえ込んで縛っているものだから、耳が多少暴れた所ではみ出すはずもない。
ドヤ顔で振り向いたジスに、シュタークは口を開いた。
「聞こえるか?」
ジスが眉をひそめる。
「ん、ん……聞こえるけど……。なあ、もっと喋ってみてくれないか?」
「俺の声が聞き取れるか? くぐもって聞こえるんだろう?」
「……」
シュタークが喋るほどに、ジスは眉間に皺を刻んでいく。
「それで外出出来るのか? 早々に諦めた方がいいと思うがなあ」
先んじて神子となり獣の耳を持つシュタークには、ジスの感じている事が手に取るように分かる。
ひと目に立つ煩わしさから耳を隠そうと思えど、耳を覆うことは非常に不愉快なのだ。押さえつけても耳は反発して跳ね上がるし、毛が摩擦でぞわぞわする。それにくわえて、ここまでぎっちりと耳を覆ってしまうと、音がくぐもって聞き取りにくい。それはあたかも、壁越しに喋り掛けられているかのようだ。何を言っているのか分かりづらく、聞き取ろうと神経を研ぎ澄ませても聞き取れずに疲弊が溜まる。
そして暑い。耳で温度を調節しているのか、熱が籠もるのだ。
「……うがぁ!」
案の定ジスは、耐えられなくなってストールをむしり取った。
べちっとベッドに放り投げられたそれを、シュタークは半笑いになりながら回収してたたみにかかる。
「じゃあ耳はこのままなのか。だからお前も隠していないのか?」
「そういうことだ。耳はどうにも出来ん。諦めろ」
たたんだストールと外套、キャスケットをひとまとめにしてジスに差し出すシュターク。
「……あ、ありがと……お手数お掛けしました」
狼の神子の意外な面倒見の良さに面食らいながら、ジスはそれを受け取って荷物の中に入れ込む。今は初夏なので防寒具は必要ないのだ。
「どういたしまして。準備は整ったか?」
「ああ――結局このまま行くだけだからな」
そもそも旅の身の上だ。荷物は常にまとまっている。ジスは商売道具がそれなりにかさばるものの背負える範囲であり、シュタークはそれに加えて腰に剣を帯びる。
「じゃあ、出るが……その前に俺の加護を説明しておきたい」
「狼の加護? そいや知らねぇな」
「狼の加護は、『群れの保護』。俺の匂いの付いた人間を守る加護だ」
「……匂い」
「俺とあんたは昨日寝たから、匂いはすでにべったり付いていると思うが」
そう言いつつ、シュタークはジスに腕を伸ばし、抱きしめる。
「え? え?」
「匂いを付ける為に一日一度か二度はこうして抱きしめることになる」
「お? あ、ああ……なるほど」
上背のあるシュタークの腕の中に、どちらかというと小柄なジスはすっぽりと収まってしまう。
「へー。で、どんな効果があるんだ?」
「物理攻撃を数回弾くようだな。何回弾くかは俺の気持ちによる」
「……気持ちって、お前がどれだけ俺を守りたいって思ってるか、ってこと?」
「そういうことだな」
「じゃあ怒らせないようにしないとだなぁ」
ジスは面白そうに笑いながら、シュタークの腕から抜け出た。
「さて、では出よう。ひと目を避けたいなら馬車を使う手もあるが」
シュタークからの提案である。
だがジスは考える様子もなくそれを退けた。
「金がないわけじゃないけど、それはいいや。……神殿に入ったらもう二度と出られないんだろうし、景色を見ながら歩きたい」
そして宿の主人と女将と今生の別れを交わしたジスは、王都に続く街道をシュタークと共に歩き始めたのだった。
「俺さあ、道中の村や町で研ぎを受けながら歩きたいんだけど」
宿場町のさほど人通りが多い訳でもない大通り。そこを歩く二人連れは、どちらも獣の耳を頭上に生やしている――それが余程珍しいのだろう。少ないひと目を強力に注がれて、ジスのうさみみはビンビンに跳ねた。ぴーんと突っ張り、ひとの囁きに反応してぐりぐりと角度を変えるのである。
対するシュタークはと言えば、視線も囁きも気にならない様子で泰然としている。
「ある程度はあんたの好きにすればいいが。宿屋の主人からもらった値をはみ出すようならあんたから取り立てる」
「――はみ出す寸前にお別れするってのは?」
「俺が主人から請け負ったのはあんたを無事に神殿に送り届けること――〝護送〟だ。はみ出す前にとっとと神殿に放り込むとするかな」
「……つまり俺は銀貨半分の自由の身、ということか」
深く溜め息を付いて肩を落とすジスに、シュタークは呆れた視線を流す。
「奴隷商人にとっ捕まって売られたいのか?」
「いやいや。それは嫌だけどさ。……でもずっと神殿から出られないことを思うと、……何が神子だよ加護だよ、ってね。そもそも獣兎神はなんで俺なんかを神子にしたんだ?」
ジスの問いに答えられる者は、この世の何処にもいないのだった。
神殿があり神子がいるが、実際に神の姿を見、声を聞いた者はいない。神に選ばれた神子たちが殊更信心深かったという記録もなく、信心深い神官たちが神子に選ばれた事実もない。時折神の愛を感じると言う神子もいるが、それは個人的な感傷とされていた。
この世は丸い耳の人間によって運営され、王侯貴族たちは神官ですらない。
「お前はいつ狼の神子になったの?」
「俺は八つの頃だな」
「ふぅん。そんな子どもの頃からなら、特に疑問もなく受け入れられたのかなぁ」
宣言通り村や町を訪ね歩いたジスは、その行く先々で仕事を請け負い、そのひとつひとつを丁寧に片付けた。
村人達との関係も良好で、彼らはまずジスの耳を見て驚き、神子になったことを祝福する。そして同時にそれが別れを意味することにも気づき、悲しむのだった。
「不思議な仕事だな」
今夜の宿にと宛がわれた納屋で、隣に転がったシュタークがそう言ったのでジスは目を瞬かせた。
「そうか?」
分厚く敷き詰めた藁はふっかりとしていて、敷き布を掛ければ寝心地のいいベッドになる。そして初夏の爽やかな風を感じながら、天窓から覗く満天の星々を天蓋がわりに眠るのはなかなかに気分がいい。
「俺は一期一会だからな。あんたのように定期的に各地を回って、その方々に知り合いがいる訳じゃない。それにすごい歓迎ぶりだ」
「剣に研ぎ師が必須なように、鎌や鍬にも研ぎ師が必要なのさ。農民たちはおいそれと土地を離れられないからなあ、俺みたいに来る奴は重宝される。……ま、そんなにも儲かる訳じゃないけどな、金以外の収入は多い」
タダで泊めさせてさせて貰える納屋や、ちょっとした差し入れや食事、町から町へと運ぶ噂話を喜ばれる事、研ぎ終わった農具を手にした時の彼らの、安堵のにじむ笑顔。
「だから俺はこの仕事が好きだよ。旅を続けられる間はずっと続けていけると思っていた」
夜空に輝く星々を眺めながらジスが呟くと、その隣でひっそりとシュタークが息を吐く。
「淋しくないのか?」
星明かりのように静かな問いだった。
ジスは横目で狼の神子をうかがい見る。淋しいだなんて、この男の口から聞くとは思わなかった。黒くて大きくて強い狼の神子は、まさしく狼を体現するような孤高の雰囲気を纏っているからだ。
「――淋しいよ。だから俺は案外、誰とでも寝るよ。あったかいのがなぐさめになるんだ」
街で娼婦を買うこともあれば、行きずりの男と一夜を共にすることもある。誰とでも馴染み易いジスは、酒場で意気投合してそのままベッドになだれ込む事が多かった――思えば、シュタークともそのパターンだ。
馴染みの宿屋で相手をあさるような真似は普段ならしないのに、隣に座ったシュタークがあまりにも男前でときめいて、話しかけてみれば以外と話しやすくて、笑った顔が年下らしく可愛かったから。
きっと、誘ったのはジスからだった。
――今思えば、こいつよくも俺と寝てくれたよな。
シュタークは端正で男らしい美丈夫だが、ジスはこれといって美点のない容貌だ。白い肌に濃茶の髪、茱萸のような赤い瞳は珍しいかもしれないが、その珍しさを活かせる顔立ちではなかった。とりわけ醜くもないが、平凡だ。
――まあ単に、ひとの少ない田舎じゃあ選びようもなかったってことかな。
それでも優しく抱いてくれたシュタークには感謝しかない。
「つまり俺のような相手は他にもいたと?」
シュタークの問いに、ジスはてらいなく頷く。
「そりゃそうだ。……ああ、しかし最近はご無沙汰だよなあ。お前どうよ? 次の町で遊んで来てもいいぞ。俺は宿に引っ込んでおくから」
「――宿に?」
「だって俺、コレだぜ?」
ジスは忌々しげにうさぎの耳を引っ張った。
「遊びで妊娠したらシャレにならん。――女の避妊薬って俺にも効くのかな? 神殿でそれを聞くまで、俺は誰とも寝れねーよ」
そもそも男と寝はじめたのは、妊娠の可能性が万に一つもないからだった。受け身に回るようになってからも続けているのは、結局は抱かれるのが好きだからだ。性的な快楽もさることながら、人肌に触れて包まれるのこそが快感でありなぐさめだった。
降ってわいた加護でそれを奪われて、ジスは苛立ちを募らせる。
「――溜まっているなら抜いてやろうか?」
横合いから響いた言葉に、ジスは思わず絶句したまま首を巡らせた。
ぱちりと目があったシュタークは、冗談とも思えない強い眼差しを、ひたりとジスに当てていた。
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