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【-4-】
王都にほど近い街へと昼過ぎにたどり着いた二人は、そのまま市場で遅い昼食を物色していた。
「店に入るか、適当に済ますか」
「とにかく早く腹になんか詰め込みたい」
「じゃあ揚げパンと串焼きでいいか?」
「そっちのスープもうまそうだな」
市場通りはひとでごった返していた。すれ違う人々は皆、狼と兎の耳を持つ二人連れを驚いたように見返して行く。シュタークは耳がはえて長いのでそうした視線を気にする段階はとうに過ぎているし、ジスは食べ物に夢中で気付いていない。
大柄なシュタークを盾にするように歩くジスは、立ち並ぶ屋台に目移りしてあちらこちらと視線を彷徨わせていた。新鮮で色鮮やかな果物や野菜が並ぶかと思えば、湯気を立てて蒸されるパンや、炙られる肉の美味そうな匂い……それらに気を取られていると、当然足取りは遅くなる。そして二人の間に開いた隙間には、どんどん他人が入り込んでいく。
あっという間に見えなくなったシュタークの背に、ジスは焦った。
「シュタ――」
恥も外聞もなく声を上げようとした所へ、ドン、と下半身に衝撃が走る。
「へ……」
どさっと音がしてジスの前の人波が割れた。尻餅をついた男の子の姿に、ジスは自分がその子を蹴ってしまったことを悟る。
「あー、ごめんごめん」
五歳くらいのその子を慌てて引き起こすジス。服をぱんぱんと払っていると、子どもは涙を浮かべはじめた。
「……妹、たすけて」
「妹?」
「あっち。怪我して、ないてる」
切羽詰まった風に通りの向こうを指さし、すがるようにジスの膝に手を掛けてくる。
自身も連れとはぐれたばかりのジスだが、子どもを放っておくことは出来なかった。
「案内してくれ」
子どもはジスの裾を握ると、市場通りと直角に交わる小路の方へと誘導して行く。露店の幌布をかすめて通り過ぎ、ひとけのない裏通りへ足を踏み入れる。
ああ…ん、とかすかな声が聞こえたが、それが女の子の声なのかどうか判別はつかなかった。赤子の泣き声のようにも、猫の声のようにも思えた。
「どこだ?」
「もっと奥」
子どもが進もうとする先には、枝分かれした通路がぽかりと口を開けている。人の気配と視線は濃密に感じるのに、人の姿はない。
どことなく恐れを抱いて、ジスは足取りを鈍らせる。
それに焦れたのか、子どもはジスの手を握ろうとする。すると、その指先でキン……、と音がした。空気のよどんだ裏路地には不釣り合いな、清浄で涼やかな音だった。
「……?」
驚いたジスが手元を見れば、子どもも驚いて目を見開いている。そして子どもはもう一度、ジスの手を握ろうとした。
――キィン……!
金属の触れ合うような高い音が再び響き渡る。今度は先程よりも大きく長く響いた。
「なんの……」
「ジス……!」
シュタークの声が背後から聞こえる。反射的に振り返ろうとしたジスは、子どもがきびすを返して路地の奥へと駆け去った姿、ひるがえったその指先に握られていた針のようなナイフのきらめきを認めた。
「おい……!」
まさか、それで俺を?
怒りに駆られ追いかけようとした背を、シュタークが抱き留める。
「あいつ俺を刺そうと……!」
「分かっている。音が聞こえた」
シュタークは暴れるジスを抱き寄せたまま裏路地を脱出する。
「音?」
「高い金属音だ。狼の加護・『群れの保護』下にある者が害されようとした時に鳴る警告音のようなもので、俺の脳内に直接響く。大体の位置も分かるんだ」
「へえ……――でも、なんで俺を」
「自分に耳がはえているのを忘れたのか? ナイフの先に薬でも塗ってあったんだろう。そしてあんたを誘拐して売りさばくつもりだった……危険だな」
「でもあんな子どもが」
ジスの目にはごく普通の子どもに見えた。妹を思って涙まで浮かべていた。今思い返しても到底演技のようには思えないが、同時に、演技であろうがなかろうがどちらにしても悲惨だなと苦く思う。
「市場で飯は諦めて宿に向かおう。悪いがこの先は、寄り道はさせてやれない」
「あ、ああ……」
シュタークに導かれるままに市場を抜けたジスは、街の中通りにある宿へと案内された。外観は下の上といった感じの宿屋だ。ところが建物内は、華美ではないが上質な佇まいとなっていた。
シュタークは顔見知りらしい従業員と言葉を交わし、慣れた様子で部屋を取る。
「ここは傭兵内では有名な、警備の行き届いた宿なんだ。訳ありの貴族が泊まることもある」
「へぇー……」
取った部屋は天井にも壁にも壁紙が貼られ、嵌め込まれたガラス窓には複雑な模様の織り込まれたカーテンが掛かっている。調度類も丁寧な細工が施してあり、油剤の塗られたつるりとした手触りにジスは驚いてしまった。
さらに、この部屋には魔法が施してあった。
壁に貼られた手のひら大の魔法陣に触れれば天井に埋め込まれた魔法石が作用し、室内の明るさや温度を調節するらしい。ジスは魔力を持たないので動かす事が出来ないが、シュタークは動かす事が出来た。
「……お前なんでも出来るんだな……」
野宿の時に火を熾しているのは見たことがあるが、魔法陣に注げるほどの魔力持ちだとは気付かなかった。
そして同時に気付いた事は、つまりはここは『防御魔法陣で守られた宿なのだ』ろうという事だ。
――そんなの、絶対に高いに決まっている。
さすがにこれを『相互扶助か?』と問うことは出来ず、ジスはしゅんとうなだれた。どうやら神殿で別れる時には、ジスの全財産をシュタークに渡さなければならないようだ。
――足りるかな。現金だけだと全然足らないけれど、あれを売れば多分足りる。
入館時にシュタークが支払っていた金額を思い出しながら、ジスは金の工面を考える。
「なんでも、という事はないな。加護があるから油断していたが、守護魔法を習得しておくべきだった。さすがに加護だけでは、野宿や安宿では心許ない」
「そっかあ……」
つまりもう、自由な時間は終わりということだ。
「あんたを狙っている賊がいると分かった以上、今までのようには自由にさせてやれない。幸い王都までは近い。なるべく早く移動しよう」
迷いなくきっぱりと言い切るシュタークには、ジスが感じてるような感傷は見られない。気後れに胸を塞ぎつつも、ジスは頷いたのだった。
その後は宿から一歩も出ず、昼も夜も宿の食堂で済ませた。
シュタークは食事から戻るなり剣の手入れをはじめ、ジスはベッドに転がってその背を見つめている。
「――カキーンて、すごかったな。狼の加護」
あれは、胸のすくような心地よい音だった。音の清浄さがシュタークの纏う雰囲気に似ていたようにも思う。
「暗殺は防げる。だが誘拐は、隠されて俺の匂いが消えてしまえば終わりだ」
確かに。あの子にあのまま賊のアジトまで導かれていたら、ジスは簡単に捕らえられていただろう。
「……そんなに気にすんなよ。お前とはぐれたうえにあの子に着いていった俺が間抜けだったんだし」
シュタークの過失ではないと言ったが、シュタークは無言だ。
「――なあ、なんでそんなに気にしてんの? 俺は無事だったんだからいいだろ?」
王都まで残り二日。それをこんな風に気まずく過ごしたくない。
「俺さあ、誰かと旅するのって初めてで、すごく楽しかったよ」
両親を相次いで亡くしてからは、ずっと一人だった。各地を巡りその先々に知り合いがいようとも、行きずりで誰かと触れ合おうとも、旅空の連れ合いは淋しさだけだった。
それはおそらく傭兵のシュタークも同じ事で、だからこそあの夜『淋しくないのか?』と問うことが出来たのだとジスは思っている。
「お前も俺と旅して、ちょっとは楽しかったか?」
本当に訊きたいのは『お前の淋しさを、少しは薄められたか?』という事だった。
楽しさなんて一過性で、常に胸をひたす淋しさこそが当たり前で。
影に染み入り血肉に溶けて巡るような淋しさは、笑おうが歌おうが酒を飲もうがびったりと張り付いて離れない。そんな淋しさを、一時でも引き剥がす事が出来ていただろうか。孤独を払いよせつけぬ灯火のようなものになれていただろうか――ジスにとってシュタークがそんな存在になりつつあったからこそ、彼にとってもそうであればと願う。
だがとても、そんな重苦しい問いを投げつけることは出来なかった。
「そうだな」
そして、帰って来たのはそんなぼやけた返答で。
ジスは溜め息をつくと、目を閉じた。
けれどその後すぐにベッドに入り込んできたシュタークによって、ジスの眠りは妨げられる。
着衣を剥ぎ取られて全身をくまなく愛撫され、止めろと言っても啼かされる。
――こんなん抜き合いじゃない……もうセックスだろ。
或いはその前段階、その準備だ。
事実シュタークは挿入たがった。指で何度も極めさせてとろとろに蕩けたジスの窄まりに指を差し込んだまま、
「挿入たい」
と呟いたのである。
ぽつりと落ちた小さな呟きだったが、それは夜のしじまに切なく響き、甘露のような酩酊をジスにもたらした。
――求められている。
心底そう感じさせる切実な呟きが、ジスの身体だけでなく心まで疼かせる。とろかされた身体だけでなく胸の内までもがその甘美さに酔いしれてしまいそうになる。
だがやはり、ジスはそれに応えることが出来なかった。
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