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産まれた意味を
翌朝、胸の奥にぽっかりとあいてしまったものを感じながら、楓華は支度を済ませた。
通学路も、九月の空も、蝉の鳴き声も、普段と何も変わっていない。
そして、いつも通る宇美八幡宮も。
楓華は、足を止め、しばし悩んでいた。
ヤハタマルに、……あの馬の像に、挨拶をするべきなのかを。
これまでは馬の像に挨拶するなんておかしな行動を、何の疑問もなくやっていた。
だというのに、今日はその挨拶に理由を探していた。
むしろ、もうここには来ない方が良いのかもしれない。そんな風にさえ思ってしまう。
ヤハタマルは、ハッチではなくなったし、自分はただの人間だ。
あやかしの世界に近づくことは、しないほうがいいと分かっている。
楓華は、悩んだ結果、足を動かした。
神社には入らずに、一歩進んだ。寄り道をせず、通学路をなぞった。
どんな顔をして、境内の馬の像の横を通り過ぎれば良いのか分からなかったからだ。
ハッチの横を通り過ぎて、挨拶しても声が聞こえなかったら――。
きっと、楓華は泣いてしまう。
ヤハタマルには涙を見せたくない。捨てられたくないから、あの日のように。
母親に「捨てないで、一緒にいて」と泣きついたあの日、楓華は母親から突き飛ばされた。
――お前が邪魔でしょうがない。
その声は、今も頭の奥に響き続けている。
自分が困らせたから、泣いて迷惑をかけたから、母親は疲れてしまったんだ。
だから、楓華はふわりとした笑顔を作るように頑張った。
綿毛みたいな笑顔なら、きっと重くない。
うるさくない。
きっと、可愛いと言ってくれるから。
困ったときに、きっとお母さんが助けに来てくれるから。
そう信じて、祖父の家で暮らし始めた。
お爺ちゃんもお婆ちゃんも優しくしてくれた。
きちんとお小遣いだってくれたし、小さな頃はいつも宇美八幡宮に連れてきてくれて、子安餅を食べさせてくれた。
高校生になった今も、母親とは連絡を取っていない。
でも、母親がいまどうしているのかは、きちんと知っている。
母は立派な人間で、世界にも認められている。忙しい人なのだ。だから、迷惑をかけちゃいけない。邪魔をしてはいけないのだ。
母親は世界的な芸術家だった。
楓華が物心ついたときには、もう父はいなかったので、父がどんな人物かは知らない。
ただ、母は幼い自分を一人で育てようとしていたのを知っている。
とても辛そうだったのはハッキリ覚えている。
母の仕事は、感性が重要視された。
楓華の育児は、それにひびを入れ始めていたのだ。
母の作品に質が落ちたと評価がつくたび、母は壊れ始めた。
そして、母は芸術を取るのか、娘を取るのかを決断したのだろう。
母は、芸術を取った。
母にとっては、作品こそ我が子だった――。
母は父親のことを憎んでいたこともあって、父の血が混ざっている楓華のことを気に入らないと言っていた。
そして、邪魔だと、はっきり言われたのだ。
あんたとは暮らせない。育てられない。母親をやめると、五歳の楓華に言った。
楓華は泣いた。
そして、親子の繋がりが千切れた。
母は、楓華を自分の親である古賀家に預け、一人国を出て行った。
芸術家の仕事はそれから順調らしくニュースにもなって、母が健在であることを調べなくても分かるほどだ。
母は、その芸術家としてのロイヤルティーを楓華に送り続けてくれている。
それは産みの親としての責任や義務からで、愛情ではないのかもしれない。
だが、その金額は多額で、楓華の資産は高校生の少女が持つような金額を何百倍と上回っているのだった。
おそらく、これから先、生活していくことに何の不自由もないだろう。
楓華は、そのお金を祖父母に預け、好きに使ってほしいと言っている。
祖父たちは、必要な分だけしかそのお金を使わなかったし、楓華のこれからのためにしっかりと取っておけと、金銭感覚も勉強させてくれた。
楓華は幸せだと思っていた。
ただ、どうしても不意打ちみたいに不安が走るのだ。
それが何なのか、分からない。
急に世の中の全てが怖くなって、震えて動けなくなるときがあるのだ。
そういうとき、楓華はお母さんに助けを求めていた。
どれだけ呼んでも来てくれない母に、ごめんなさいと詫びながら。
引っ越してきた頃などはそれが顕著で、自分を救ってくれる人を求めていた。
だから、楓華は色んなものに、名前をつけて空想していた。
お菓子のオマケについていたおもちゃや、ぬいぐるみ、そして、神社の境内にある、馬の像に――。
名前をつけると、魂が宿るとどこかで聞いた。
それを信じて、楓華は自分を守ってくれる存在を空想していた。
ハッチは本当に格好いいと思った。
強くてたくましいその馬の銅像は、いつか本当に動き出して、自分を助けてくれるんじゃないかと思っていた。
――チャイムが聞こえた。
気がつくと、学校の授業は全部終わっていた。
もう、夕方が迫っている。
帰らなくては。普段のように、子安餅を買って……。
宇美八幡宮の前まで、また来た。
境内の奥まで行かなければ、ハッチには逢わない。
この、「こやすもち」の甘味処だけ立ち寄ればいいのだ。
「おじちゃん、お餅一つ」
「あいよ」
楓華は、熱い餅を受け取った。
そして、店の前のベンチに腰掛ける。
子安餅を包む、薄いビニールをはいで、熱い餅を一口、咥えた。
「……あれ、しょっぱい」
甘くない。しょっぱさが舌に広がる。
なぜ、味が変わってしまったのだろう。
なぜ、頬が濡れているのだろう。
なぜ、隣に誰もいないのだろう――。
楓華は項垂れ、涙をポロポロとこぼし始めた。
「ハッチ……、ハッチぃ……」
嗚咽が勝手に漏れ出てしまう。
抑えないと、店のおじさんが何事だろうと思うだろう。
店の前で、お餅を食べながら泣いていたら、邪魔になる。ガマンしなくては。堪えなくては。
でも、あふれでるものは止められず、そして、いつまで経っても、おじさんからの声が聞こえない。
蝉時雨だって――聞こえない。
「ハッチじゃねえっつっただろ」
聞こえたのは、そんなぶっきら棒な声だった。
楓華はハッとして、顔を上げた。
いつの間にか、隣には和装の少年が座っていた。
ふてくされたような顔をしている彼は、こう続けた。
「ヤハタマルだ。覚えろよ」
「ハッチ!!」
楓華はもっと涙があふれ出した。
もう、子安餅の味が全然分からない。
「それ、食わせろよ」
そう言って、ヤハタマルは楓華の子安餅を奪い取ると、一口でばくんと頬張った。
「んふぉーっ! アッチ、あちぃっ!?」
ガフガフと息を吐き出し、舌の火傷に苦しみながら、ゴクリと飲み込んだヤハタマルは、ヒイヒイ言いながらのたうち回った。
「だ、大丈夫?」
「な、泣き止んだか」
腫れた舌を引っ込めて、ヤハタマルは楓華を伺った。
涙は、止まっていた。
「ハッチ、もう逢えないんじゃ……、も、もしかして、仕事が失敗してたの!?」
あの夫婦の迷いを払えなかったから、またハッチがやってきたのかもしれないと考えて、楓華はあの渡部夫婦が心配になった。
「ち、ち……違う違う! あの夫婦はもう大丈夫だよ、仕事は成功してるっ」
相変わらず、心配してくる箇所がずれている楓華に、ヤハタマルは大丈夫だから安心しろと伝えた。
「じゃ、じゃあどうして……」
「それが、とんでもない黒幕がいてな……」
「黒幕?」
ヤハタマルは、悔しそうな顔をして、遠くを見つめた。あっちのほうには、確か神殿がある。そこには住吉三神が祀られていたはずだ。
「オレたち、ハメられてたんだよ。最初から」
「どういうこと? 住吉さんたちが何か企んでるのは、わたし分かってたよ」
「はぁ!? 分かってたぁ!?」
「うん、なんかよく含み笑いしてたっていうか、ハッチのことからかってた時、意味深な顔してたし」
「う゛っ……」
ヤハタマルは表情を固まらせていた。
どうやら、気がついていなかったのは彼だけらしい。
「今回……子安の石の仕事を、楓華にさせるのは、方便だったんだよ」
「方便?」
では、神域に入った罰とはなんだったのだろう?
「住吉さんたちの目的は、そこじゃなくてだな……」
「うん?」
もごもご、と何やら言いにくそうにヤハタマルは言葉を詰まらせた。
楓華は続きが聞きたくて、ヤハタマルの言葉を待っているが、彼はなかなかその先を語らない。
その時、強い風が吹き付けてきた。
ヤハタマルのポニーテールを、ばたばたと揺らせてもてあそぶ風は、もしかしら、三神たちの悪戯だろうか?
「だぁー! 分かってるよ! 言えば良いんだろ!!」
ヤハタマルはがばりと立ち上がり、風に向かって吠えた。
ひゅるひゅると笑うような風の音がして、あたりは静かになる。
「オレは、お前の願いから生まれたあやかしだ」
「うん、聞いたよ」
「だから、お前の願いを叶えるために動くことが、生き様なんだよ」
「うん?」
何を言いたいのか、掴みきれない楓華は、首をかしげた。
「だから……住吉さんは、オレをハッチって呼んでからかったんだ」
「う、うん、それも聞いたけど?」
「オレがハッチの名前をからかわれたら、その名付け親にアプローチするだろうって考えたんだとさ!」
こんちくしょう! と、ヤケクソ気味にヤハタマルは告白をしたが、楓華はまだ飲み込めない。
どういうことなのか、きちんと説明してほしいと促すと、彼は真っ赤な顔をして言った。
「……オレは、お前を守りたくてしょうがなかったけど、何にもできなかったから、住吉さんたちが、オレを焚きつけて、楓華を神域に連れてこさせたんだ」
「ハッチの名前をからかった」
「そうだよ。で、思惑通りにオレは楓華をここに連れてきて、住吉さんはオレとお前に仕事を命じた」
「うん、それは分かるよ」
そこから、この物語ははじまったのだから。
「住吉さんたちは、オレがあやかしの役割を果たしていないことを、叱ってたんだ。それであの日、思いっきり叩かれた」
「ええーと、つまり?」
「だから、バツってのは、お前が神域に入ったことじゃなくて……オレがあやかしの役割を果たしてないことだったんだよ」
楓華は、真っ赤な顔をしている少年をぽかんと口を開けてみていた。
「ハッチの役割って……」
「オレは、お前の願いから生まれた」
困ったとき、救ってくれる人――。
少年は赤い頬をかきながら、ちらりと楓華を横目で見た。
「お前を、守りたいって、ずっと思ってた」
かすれた声で、ヤハタマルは呟いた。
「でも、オレは動かなくて、それを見てた住吉さんが業を煮やして、オレの名前を茶化し始めたんだ」
「それで、わたしを、神域に連れ出して……」
「話をさせたんだ、オレと楓華を」
「子安の石のことは、どうでもよかったってこと?」
「いいや、住吉さんは言ってただろ。なんでも良いが、どうでも良くはないって」
それは子安の石の選ぶ基準の話ではあったが、今回の仕事に対する心持ちも当てはまっていたのかもしれない。
「ケツの重いオレを蹴り上げるため、お前にあんな仕事をさせた。そして、楓華の優しさを再確認させたんだ。オレに」
「……わたし、別に優しくなんか……」
「黙れ、そして聞け」
「……」
自虐しそうになった楓華を、ヤハタマルはぴしゃりと止めた。
楓華は黙って、彼を見た。
「お前は、オレが助けるよ」
「……!」
大きな樹が、ざわざわと揺れる。葉の音色が、笑い声みたいに聞こえたのは、どうしてだろう。
あの悪戯な中筒の笑みが浮かんだ。
ひゅぅ、と木枯らしみたいな風の音も、底筒の口笛みたいに思えた。
「だから、……お前がいやじゃねえなら、これからもオレとコンビで子安の石の案内仕事、続けていかないか」
「神域に、わたしが居てもいいの?」
穏やかな空気が肺を満たすその神域は、かまわないと、受け入れてくれるみたいだ。
厳かな気配は、表筒の顔を思い出す。
楓華は、弾けたようにポニーテールの少年に飛びついた。
「ハッチ! ハッチ、ありがとう!」
「ハッチじゃねえ……って、まぁ、いいか」
ヤハタマルはくすりと笑った。
こんなに嬉しそうに、その名前を呼んでくれる最愛の人がいるのだから、別にかまわないじゃないか。
そんな風に思った。
八幡宮の神域で、二人は抱きしめ合って、笑った。
その光景をどこかで見ていた兄弟の三神も、茶化すように笑っていたかもしれない。
まったく、手のかかるカップルだと。
馬の像には意味がある。子宝、安産の御利益があると言い伝えられているのだ。
その馬の像のあやかしが、女の子を守ると言うことは、どういう意味なのか、語るのはあまりにも無粋だろう。
この神社に訪れた愛を持った人々は、須く幸せにならなくてはならない。
それが、神の誇りであるからこそ、航海を司る三神は、これからの二人の恋愛という名の航海を見守ろうと、企んでいた。
……と言えば聞こえは良いかもしれないが、きっとあの三兄弟は、ほとんど面白半分なのかもしれない。
◇ あやかし神宮物語 ~安産祈願の子安石~ 了 ◇
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