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第二章
子供が大きな声で泣いている。
その泣き声に呼応するかのように、部屋の蛍光灯が明滅する。
女が悲鳴をあげる。
泣きながらすがりついてきた子供を拒絶するように、両手を払う。子供はさらに大きな声で泣き、蛍光灯はぷつりと役目を放棄した。
TVの脇に置いていた写真立てが、派手な音を立てて倒れる。
「この、悪魔が!」
女が叫ぶ。
「こんなの、私の子じゃないっ!」
女が醜く顔を歪めて叫んだ。
「人間じゃ、ない!」
目覚まし時計の音で、天神佑助は目を覚ました。
ああ、なんだかひどく嫌な夢を見た。
覚えていないはずの、子供のころの夢。心の奥に閉じ込めていた記憶なのか、それとも自分の捏造なのか。最近になってよく見る。
大きくため息をつく。
鳴り続けていた目覚まし時計の音を止めると、枕元で芋みたいな物体が今日も立っていた。
「……おはよう、葛根湯」
苦笑まじりに微笑むと、声なき声で鳴いて、それは姿を消す。
毎朝やってくる、月歩の使い魔。
毎朝の確認。今日も、嫌っていない。忘れていない。その合図。
重くて、煩わしくて、……ありがたい。
卜部月歩は、どこまでも彼の味方だった。
翌日、ひよりは、いつもよりもちょっと遅れて登校した。寝坊したのだ。洗濯物が間に合わなかったのが悔しい。
昨夜は、いろいろ考えていたら、なかなか寝付けなかった。ようやく眠れたと思ったら、変な夢を見るし。
夢の内容はよくは覚えていない。すごく怖い夢でもなかった。でもなんだか嫌な気持ちがする夢だった。
原因がなにかはわかりきっている。ちょっとため息。
教室に入ると、
「おはよう、雫石さん」
今日も元気な天真の声に、
「おはよう」
言葉を返す。
自分の席についたところで、
「雫石さん」
月歩が机の横までやってきた。
「あ、卜部さん。昨日はありがとう」
「いいえ。あの後、大丈夫でした?」
「うん」
そうよかった、と月歩は微笑み、少し悩むような顔をしてから、
「ねぇ、雫石さん」
ちょっと身をかがめると小声で続けた。
「一つ言っておきますね。あまり、佑助さんに関わらないでくださいね。私の、許嫁ですから」
「え……?」
それだけ言うと、月歩は、
「では、また放課後に」
告げて、自分の席に戻る。ひよりの返事なんて聞くそぶりもなかった。
「何、雫石さん、卜部さんと仲良かったっけ?」
天真の言葉に、
「うん、昨日ちょっと」
返事をしながらも、今言われたことを反芻する。
今のは、……なんだ? もしかして、釘をさされた? え、許嫁?
漫画やドラマ以外で初めて聞く言葉を、なかなか処理しきれなかった。
放課後、掃除当番だから校門の方で待っていてくれという月歩を残し、外に出る。校門へ向かうと、
「あ」
昨日と同じように、佑助が立っていた。
しかし、この人、黒い服以外持っていないのだろうか。目立つな。
「どうも。あのあと、大丈夫だった?」
「はい。ありがとうございます」
「月は?」
「卜部さんなら、掃除当番です」
「あ、そうなんだ」
じゃあ、ちょっと待とうか、と彼は校舎の方に目を向ける。
「あの」
「ん?」
その長身を見上げて、朝からずっと疑問だったことを、問うた。
「……許嫁なんですか?」
「は?」
「お待たせしました」
掃除当番を終えた、月歩がやってくる。
「それじゃあ、行こうか」
と三人で歩き出す。
今日も、佑助と月歩のあとを、ひよりがついていくスタイルだ。
「月」
小声でそっと、佑助が隣の月歩に声をかける。
「はい?」
「許嫁って言ったんだって?」
「あら、どうしてそんな意外そうな顔をなさるんですか? ちゃんと約束、したじゃないですか」
月歩は、どこかわざとらしく目を見開いて、首をかしげる。そんな声をだされるなんて心外だ、とでも言いたげに。
「子どもの頃にね」
「父は本気ですよ?」
「またまた。……俺は、許されないことをしたんだから」
思い出す。数年前のあのとき、友人があげた悲鳴を。群がる黒い影を。なすすべもない自分の無力さを。
「兄のこと、佑助さんのせいだと思っているのは、佑助さんだけです」
重苦しく吐き出したつもりの言葉に、さらりとそんな許しの言葉を返されてしまうと、逆に反応に困る。
思わず視線を隣にやると、綺麗な黒髪が揺れていた。
「もっとも、そんなこと関係なく、いい女になって振り向かせますが」
言葉に詰まった佑助を見て、月歩はくすりと笑う。
「わたしを袖にしたら、後悔しますよ?」
歌うようにそう言うと、弾むような足取りで少し前に出た。
佑助の困惑したような視線を、背中に感じる。
全く、天神佑助は、自分が女性受けする見た目なことに気づいていない。その長身も、整った顔立ちも、イケメンと評して差し支えないものだ。
まつげの違和感はあるが、それも彼の雰囲気からミステリアスという高評価に変わるだろう。少なくとも、マイナスには働かない。
このルックスの人間に、突然迷い込んでどうしたらいいかわからない異界で助けられたら、惚れるのも仕方ないだろう。
だから、釘を刺したのだ。雫石ひよりがうっかり佑助に熱をあげないために。さらに言うならば、佑助がそれに心をうごかされないように。
だって、月歩の方がずっとずっと前から、佑助のことが好きなのだから。
最初の対面は、兄の友人としてだった。たまたま遊びに来ていたところに出くわしたのだ。
一目惚れだった。彼のどこか優しそうで、それでいて悲しそうな顔に目が離せなくなったのだ。
佑助が両家のあずかりものと知ったのは、彼の事情を知るようになったのはもっとあとだ。知っても、月歩の気持ちはうごかなかった。
その頃には、見た目だけではなく、彼の性格もわかるようになっていたからだ。少し張り切りすぎる瞬間もあるけれども、基本的には周囲に気を使える、とても優しい人なのだから。
優しすぎて、いつまでも自分を責めている。佑助が今こういう状況なのは、周囲の人々にいまひとつ嫌われているのは、佑助のせいではないのに。
だから、月歩はこっそり心に誓ったのだ。自分だけはせめて、佑助のことを許し続けようと。彼はきっとそうそう自分を許すことはないだろうから。
そして、せめていざとなった時にすぐ頼りにしてもらえるように。彼のことを好きだと告げ、毎朝の挨拶でそれは変わっていないと告げる。この努力がいつか、彼が困った時に役立てばいい。
雫石ひよりのことは、クラスメイトとして力になりたいと思っている。それは本当だ。だが、彼女も佑助の事情を知ったら、彼を拒否するかもしれない。そうなったらきっと、佑助は傷つくだろう。表面上はなんでもないような顔をしながら、しっかりと傷ついてしまう。
それを避けるためにも、なるべくひよりと佑助は距離をとったほうがいい。許嫁と告げたのだってそれが理由だ。もちろん、嫉妬や警戒心といった、月歩の下心が全くなかったといえば嘘になるけれども。
まあ、佑助にはこの気持ちはちゃんと伝わっていないだろうし、一から十まで把握されていても困るのだが。
ちらりと視線を後ろにやると、佑助はまだどこか困惑したような表情をしたままだった。まったく存外、この人は鈍いところがある。そう思いながら、月歩は少しだけため息をついた。
先を行く、二人を背後から眺めながら、ひよりは昨夜、姉とした会話を思い出した。
「あれ、お弁当なんてめずらしいじゃん」
帰ってきた姉、雫石小春が、食卓に出ているスーパーのお弁当を見て呟く。
「うん、友達と話してたら遅くなっちゃって。ごめんね」
「えー、いいっていいって。ここのお弁当おいしいし、ちゃっかり値引きされてるのを買ってるのがあんたらしいね」
いただきます、と小春が蓋をあける。自分の分を先に食べ終えていたひよりは、お茶を入れて前に置いた。
「っていうか、あんたがちゃんと友達と話をしてて遅くなったとか、そんな高校生っぽいことしていることにお姉ちゃんは安心したわ」
がつがつお弁当を食べながら、小春が喋る。
「口に入れたまま喋らないの」
「はいはい」
「それに、……私だって友達ぐらいいるし」
まあ、月歩を友達と言ったのは、ちょっと語弊があるかもしれないけど。
「そっかー。ねえ、ひより、別に無理して家のことやらなくていいんだからねー。ご飯だって、必要だったらお姉ちゃん外で食べてくるし、無理して作らなくたって」
なんでもないような口調で、それでもひよりの様子を探るような姉の言葉に、
「いいの。やりたくってやっているんだから」
強い言葉で返事をする。
こうやって、姉は隙あればひよりに手を抜かせようとする。高校生らしく過ごしてほしいという姉の気持ちもわからなくもないけれども、中学の時に両親が揃って亡くなって、それ以来面倒を見てくれている姉に感謝して、役に立ちたいこちらの気持ちもわかって欲しいのだ。
いくら両親の保険金や親戚の援助があったからといって、二人で暮らしてこれたのは小春のおかげなのだから。
「ひよりがいいなら、いいんだけどさぁ」
そういう姉の声は、やっぱりどこか納得していなさそうだ。
お互いにこの件については、強情すぎるところがある。
「でも、明日は遅くなるかも」
空気を切り替えるためにも、気持ち明るめの声で言った。
「そうなの? あたし、明日は遅いから夜ご飯とかは別にいいけど。補導されるぐらい遅くなっちゃだめだよ。なあに、友達と遊ぶの?」
畳み掛けるような姉の言葉に苦笑する。遅くなるなら遅くなるで、心配性な姉の気にはかかるのだ。
「うん、そんな感じ」
「デートじゃなくて?」
「違うよ」
苦笑する。
「なによー、あんた浮いた話の一つもないのー」
「ないってば」
そういうお姉こそどうなの。口元まで出かかった言葉を飲み込む。いろいろな意味で地雷を踏みそうな気がした。
あっという間に弁当を食べ終えた姉が、お茶に手を伸ばす。これだけ食べるのが早いのに、どうしてこの人は太らないのだろうか。最近ちょっと二の腕のあたりが気になってきたひよりには不思議でならない。
「そうそう、お姉、あの駅から五分ぐらいのさ、お屋敷あるじゃん?」
「うん、あるねー」
「あそこって、ちゃんと人住んでるんだねー。門とか自動で動くの、ハイテクで超びっくりしたー」
「……え、何、友達って、あそこの人なの?」
小春が湯のみから顔をあげて、ちょっと眉根を寄せて問いかけてくる。
「友達がじゃなくって、友達の……知り合いが?」
そういえば、あの二人って結局どういう関係なんだろう。明日聞こう。
「……天神佑助?」
「え、お姉、知ってるの?」
先ほどまで一緒にいた人の名前を、意外にも姉が口にして驚く。あんなお屋敷の人と、知り合いなの?
「知ってる。高校のとき、同じクラスだったから」
っていうことは、あの人はお姉と同い年なのか。高校も、先輩にあたるわけか。お姉と私は同じ高校だから。
そんなことを考えていると、
「ねぇ、ひより」
小春は湯のみを置くと、珍しく真面目な顔をして、
「あいつに近づくのはやめなさい」
思いがけないことを言った。
「え?」
「……本当は、こんなこと言っちゃいけないと思うんだけど。でも、あいつに近づくと不幸になるよ」
「……不幸に?」
言っている意味が、よくわからない。そもそも不幸になるってなんだ? 注意にしても抽象的すぎる。
「噂だから、あれなんだけどね。あいつ、小さい頃に親に捨てられたらしくって。悪魔の子って」
「悪魔の子?」
何、その非科学的な発言。比喩的表現?
「あいつのまつげ、右目だけなんだか真っ白じゃない? あれって生まれつきらしくって。それでなんかいろいろあったらしいんだけど……。あいつ、それであのお屋敷の人に預けられて、育ててもらってたらしくって。ただ」
小春はちょっと言いにくそうに間をおいてから、
「実の両親は、あいつを捨てた半年後に原因不明の病気で亡くなったって」
「……なにそれ」
言われたことを飲み込むまでに、少し時間がかかった。
「超非科学的じゃない? お姉らしくもない」
幽霊とかおばけを信じていない小春らしくもない。
そして、非科学的だと言いながらも、もしかしたら真実なのかもしれない、とひよりは思った。そう思わせるだけのことは、非科学的なものがこの世の中にあるってことは、今日十分に体験している。
「わかってるわよ。自分でも変なこと言ってるって。でも……いろいろあったのよ、高校のとき」
小春がため息をつく。
「中学までも同じようなことがあったんだけど、そっちはよくは知らない。あいつ、一中だったし。ただ、あいつをいじめたりした人間はみんな揃って怪我したり、病気になったりしている」
「……偶然でしょ?」
活発な中学生や高校生の男の子が怪我をするなんてよくあることだし、病気だって流行病ならば同じクラスでなら一瞬で広まる。カップルでディズニーランドに行くと別れる、っていうジンクスと一緒だ。思春期の恋人が別れる可能性を考慮したら、そりゃあディズニーランド関係なく、別れるに決まってる。
「そう思うわよね。でも、十人以上がそんな目に遭ったらこっちもいろいろ思うことがあるわけ」
偶然じゃないかと思う一方で、学校でそんなことがあったら、呪いかなんかだと騒ぎになるのもわかる気がする。学校って、そういうところだ。
「まあ、言ってもみんな大したことはなかったんだけどね」
「そっか」
ちょっと安心する。それならやっぱり、ただの偶然だろう。
安心したひよりに気づいたのか、小春がちょっと声を低くして続けた。
「……一人だけ、意識不明で今も目覚めていないやつがいるけど」
「え?」
「まあ、そいつはむしろ天神と仲良かったんだけど。ただ、そいつが意識不明に陥るような大怪我をした時、一緒にいたのがあいつだったらしいの」
「そんな……」
そんな、人に危害を加えるような人には見えなかったけど。まあ、変な人ではあったけど。
「もちろん、ひよりが信じられないって思うのもわかるけど……。天神がどうこうじゃなくって、普通に非科学的な話だもんね」
そこでようやく小春は少しだけ笑った。でもすぐにそれを引っ込め、真面目な顔で続ける。
「でも、あいつにはなるべく近づかないで」
そこで小春は一度言葉を切り、ひよりの目をまっすぐ見つめ、
「心配だから」
キラーワードを放った。
「……うん」
たった二人きりの家族に、そんなことを言われたら頷くより他がない。
「気をつける。友達とのつながりだから、あれだけど」
絶対に、行かない、会わないとは言えないけど。だいたい、明日にかんしては行かない方がやばいことになりそうだし。
「うん、そーして」
言いながら、小春は何事もなかったかのように立ち上がると、冷蔵庫からプリンを取り出して食べ始めた。
ずるーい、私もー食べるー、なんて、わざとちょっとおどけていいながら、ひよりもプリンを食べ始める。
「しかし、卜部もねー、なんで目を覚まさないかねー」
お弁当を食べていた豪快さとは正反対の、繊細でちまちまとした食べ方でプリンを消費しながら、小春が呟いた。
「え?」
「さっき、言った意識不明のやつ。確かに大怪我はしてたんだけど、そんなに何年も意識不明になるような怪我ではなかったんだよねー。それに、呼吸とかはしっかりしていたし、なんかいろいろ不思議で」
ほぼ独り言のようなぼやきだったが、ひよりが反応したらちゃんと解説してくれた。それにしても、
「……卜部って言うの、その人?」
「うん」
「そうなんだ」
卜部、月歩。今日一緒にいたクラスメイトを思い出す。卜部なんて苗字、珍しいし……身内だろうか、
ますます、よくわからない。ひよりは小さくため息をついた。
そして、今、前を歩く二人を眺めても、よくわからない。小声で会話しているから全部は聞こえないけれども。兄っていう言葉だけ、月歩の口から聞こえた。
もしかして、というか、やっぱり意識不明の卜部さんは、月歩の兄なんだろうか。
とはいえ、じゃあなんで一緒にいるんだっていう気もするし。
「雫石さん?」
知らずに歩みが遅くなっていたらしい。少し先で立ち止まった月歩に呼ばれる。
「あ、ごめん」
慌てて小走りで二人に追いついた。
昨日と同じように、お屋敷の前で門を開けてもらう。違うのは、出迎えたのがあの嫌味な女性ではなく、綺麗な若い女の人だったことだ。
「おかえりー」
軽く片手をあげて笑う。その顔は、昨日あった昇によく似ていた。昇が女装して現れたと言われたら、信じてしまうレベル。
「昨日大変だったって聞いたから、ここで待っててあげた」
「ただいま、旭。気遣いありがとう」
やはりこの人が旭さんか。噂の、昇の双子のきょうだい。男女の双子なのによく似ている。
その相似性に驚愕して、間抜けにも口を開けてその顔を見ていたら、
「言っておきますが」
月歩がそっと耳元で囁いた。
「あの二人は一卵性の双子です」
「え?」
驚いて月歩を見ると、彼女はゆっくりと頷く。
え、待って、一卵性の双子は、同性にしかならないんじゃ?
どこからどう見ても、綺麗な女の人の旭を上から下まで眺める。
そして、記憶の中から、昇の姿をひっぱりだしてくる。それは顔立ちこそ整っているが、まごう事なき男性の姿だった。
ひよりの視線に気づいたのか、旭はにっこりと微笑んだ。
「月から聞いた? 変わったのは私の方」
綺麗なフレンチネイルがされた爪で、自分の鼻先をコケティッシュに指さす。
本人の自供があっても、どっからどう見ても、ただの美女にしか見えない。
えっていうか、胸、めっちゃでかくないですか?
「マイノリティ博覧会なの、うち」
けらけらと旭が笑う。あまりにもあっけらかんとしているから、細かいこととかどうでもいいような気がしてきた。
「そうですか……」
まあ、両親がいない自分の家も大概マイノリティだしな、と思って頷いた。
まあ、その胸に何がつまっているのかっていうのは、ちょっと気になるけど。あと使っている化粧水とか、シャンプーとかも気になるけど。
「あら、穏やかな反応」
「それ以外に説明していただきたいことがたくさんあるので、なんかそういう細かいことどうでもいいです」
ひよりの脳が考えるのを拒否した。
「あら、そう」
くすりと旭が笑う。
「じゃあ、お話ししましょうか。今日はお時間大丈夫?」
「はい」
「うん、じゃあ、邪魔が来ないところに行きましょう」
言って、旭はそっと角の部屋を指さす。
わずかに開いていたドアが、旭の動作で慌てたように閉められた。
「……盗み聞きか」
うんざりしたように佑助が呟く。
「両家の使用人、大丈夫ですか? 昨日から品がない方にしかお会いしないんですけれども」
「言うわねー、月。個人的には嫌味言おうが、盗み聞きしようがどっちでもいいんだけど、もうちょっと上手くやって欲しいわよね。あんなすぐバレるような無能感漂いまくってて萎えるわ」
ばれなければいいのだろうか?
「ということで、私の部屋に行きましょう」
旭が微笑むと、さっさと歩いていく。それにぞろぞろとついていく。
「昇は?」
「さぁ、部屋にこもっているんじゃないかしら? 呼んできた方がいい?」
「いや、別にどっちでもいい」
「……あんた、たまに妙に冷たいわね」
そんな話をしながら、案内されたのは、この前の昇の部屋の向かいの部屋だった。
「どうぞ」
やっぱり昇の部屋と同じぐらい広い。ベッドもあって、ソファーもあって、机もあるし。昇の部屋よりは少し、色が明るくて可愛い感じだが。
「適当に座って」
言われて、ソファーに腰掛ける。月歩がひよりの隣に座り、佑助は、ラグの上に腰を下ろした。
「コーラでいい?」
言いながら、小型の冷蔵庫を開ける。え、自分の部屋に冷蔵庫あるの?
冷蔵庫から瓶のコーラを取り出し、机に並べる。
瓶のコーラって、久しぶりに見た。
「さて、まずは本題から済ませましょうか」
と、ひよりの前に腰を下ろす。
思わずまじまじと瓶コーラを眺めていたひよりは、慌てて顔をあげた。どうも旭の存在のインパクトが強すぎて、危機感が薄れつつある。
そんなひよりに気づいているのかいないのか、旭は顔を覗き込み、少し何かを考えるそして、
「ちょっとごめんなさいね」
彼女が右手を上げるから、目を閉じる。昨日と同じように、眉間に手を当てられ、しばらく彼女は何かを呟いていたが、
「うん、大丈夫」
明るい声で言った。それに、目を開ける。
「しっかり、閉じてあるから、もう勝手に異界に行ったりはしないわ」
その言葉に安心する。
「ありがとうございます」
「いいえー。仕事だから」
「あ、それ。昨日、昇さんも言ってましたけど……どういうことなんですか? 仕事って」
「あらやだ、それも説明してないの?」
旭が非難がましく、佑助と月歩を見と、
「両家のことに関しては、わたしはよそ者なので」
澄ました顔で月歩が答える。
「俺も、居候なんで」
佑助もそう言って非難の視線から逃げる。
「あんたは、こういう時だけ、居候を主張して……」
頭痛をこらえるかのように旭はこめかみを押さえたが、
「あのね、うち……両家は、いわゆるお祓いを生業にしているの。わかりやすくいうと、陰陽師的な?」
さらっと言われた言葉を、飲み込むまでにちょっと時間がかかった。
「……そういうの、漫画だけじゃないんですね」
ようやく出てきた言葉は、結構間がぬけたものだった。
「そうなのよー。事実は小説より奇なりっていうでしょう? まあ、厳密には陰陽師とは違うんだけど」
ただ、まあ、そういうものがあるというのは、認めざるを得ない。この前から変な目に遭っているし。
「あなたみたいに異界に入り込んだ人を助けたり、閉じたりするのもうちの仕事。一応、そういうのを仕切っている団体があって、そこからお金でているから、あなたは気にしないで。健康保険的な感じで」
「……はあ」
ちょっとその金銭の流れについては、よくわからなかったが、仕事という意味はわかった。
「それじゃあ、卜部さんも?」
昨日から佑助と行動をともにしていて、あの変な空間でもなんでもないように過ごしていたということは、そういうことに関わりがあるのだろう。
ひよりの質問に、
「うちは……ちょっと、両家とは違うんですけど」
困ったように月歩が言葉を紡ぐ。
「もともとは、うちの卜部と、両家は主義主張が違うから敵対していたんですけど……、でも最近は血筋が途絶えたりと、ただいがみ合っているわけにもいかなくって、協力しているんです」
「……つまりは、お祓い?」
「ええ、まあ」
「なるほど……」
黒髪の姫カットが巫女っぽいなと思ったことはあったが、やっぱり巫女っぽい。
「昨日のあの、芋みたいなのは……」
「ああ、葛根湯のことですね? あの子はわたしの使い魔です。卜部は、使い魔を使役する家系なので」
芋みたいなのが……。っていうか、葛根湯っていうネーミングセンスはどうなんだろう。
「両家は、火の精霊のご加護を受けているの」
旭が微笑む。
「……だから、消し炭にされるとか言われたんですね」
何言っているか全然わかんないけど。起源はわかった気がする。
「昇さんは、ブラコン王子ですから」
「昨日からやたらと聞くけど、そのブラコン王子っていうのは」
「そのままの意味です」
言って、月歩は佑助に視線を移す。
佑助は困ったように笑った。
「実の弟以上に可愛がっているからねー、あいつ」
どこか呆れたように旭がいう。
なるほど、ブラコン。……あれ、そもそもそ、あの人女性に興味がないとか言ってなかったっけ?
説明を求めるように、視線を月歩に移すと、彼女はにっこりと微笑んだ。
そうか、なんとなくわかった。だから、月歩と彼は仲があんまりよくないのだろう。
「あの……聞いちゃいけないことかもしれないんですけど。天神さんは?」
ひよりの言葉に、佑助は困ったような顔をして、
「俺はいろいろあって……。両家に居候させてもらっているんだ。一応、幽霊とか視えるタイプだから、手伝いをしていて」
「……そうですか」
小春から聞いた話をしようかと思ったが、やめた。それが事実だと言われた時に、どう反応をすればいいかわからなかったからだ。
今だって、いろいろ説明してもらっているけれども、なんのことだかあんまりよくわからないし。
「うちのことは、なんとなくでもわかってもらえたかしら?」
旭の言葉に、
「ええっと、なんとなくなら」
「よかった」
旭は微笑み、そのままの口調で続ける。
「それじゃあ、ちょっと、確認したいことがあるからいくつか質問してもいいかしら?」
「あ、はい」
頷く。いや、ほんとう、なんとなくでしかわかってないけどね。
「雫石さんが、異界に入るようになったきっかけが何かあるはずなの。なにか……心当たりはないかしら?」
「心当たり?」
首を傾げる。異界に入る心当たりって何? 異界にすら、心当たりなんてないのに。
「最初は、月喰の日で合ってる?」
佑助に問われた言葉に頷く。その前には、あんな変なことはなかったはずだ。
「そっか……。まあ、月喰の日は、異界との境界が曖昧になりがちだから、入り込む人がいてもおかしくはないけど……」
旭が何かを考え込む顔をする。
「とはいえ、やっぱり、何かしらの素養は欲しいところよね」
「そうですね」
月歩も頷く。プロだけで話を進めないで欲しい。
「……あの」
「ああ、ごめんなさいね」
置いていかれたひよりがそっと声をかけると、眉間にしわをよせていた旭が顔を緩ませ、微笑んだ。
「そうね……、例えばなにか、これまでに心霊現象に遭ったことはない? 幽霊を見たとか」
「心霊現象?」
「そう。そういう心霊現象に遭った人って、異界とのチャンネルが合いやすくなるの。結果として、月喰とか境界が曖昧な時に入り込むことが多くって……」
「心霊現象……」
考えて、ふっと思いつくことが一つ。でも、あれを、心霊現象に分類させたくはない。
黙り込んだひよりに、
「思いついたことがあるなら、教えてくれるかな」
優しく佑助が問う。
「ささいなことでも、ヒントになったりするからさ」
「……心霊現象っていうのとは、違うんですけど」
もしも何かあるとしたら、これしか思いつかない。
「……中二の時、両親が海難事故で亡くなったんです」
商店街の福引きで当たった、豪華客船の旅。はりきって出かけた両親は、帰ってこなかった。船は操作ミスで岩にぶつかり、沈没。乗客の半分以上が亡くなったという。
「あら……」
旭が眉根を寄せる。
「そこからは、年の離れた姉と二人で暮らしていて。……悲しかったし、大変だったけど、それなりになんとかなっていたんです」
ただ、問題は遅れて現れた。
事故から半年後、水泳部の大会があった。中学最後の大会の日。両親に報告するためにも、絶対に優勝するつもりだったし、自分ならできると思っていた。
「私、泳ぐのすごく得意なんで。ずっと、優勝ばっかりしてきたし」
それなのに、あの日は違った。
自由形、二百メートル。
合図に合わせて、飛び込む。
そこまでは、いつもどおりだった、
水に入った瞬間、両親の声が聞こえた。
水の中なのに、はっきりと。
「何を、言っているのかは聞き取れなかったんだけど……あれは、お母さんたちの声だったッ!」
突然聞く、懐かしい声に慌てた。何を言われているのか、聞くのが怖かった。
怒られるんじゃないかって。
自分たちは、水の中で溺れ死んだのに、娘が悠々と泳ごうとしていることを怒られるんじゃないかって。
水は、敵なのに。
そんなことを思ったら、前に進めなくなった。
手足が止まり、どちらが水面なのかがわからなくなった。
溺れた。
そんなこと、初めてだった。
慌てて、必死にコースロープにつかまると、起き上がろうとする。
どうにかこうにか、顔を水面から出すと、両親の声は消えた。代わりに、
「雫石っ?!」
怒っているような、慌てたような顧問の声がした。
ゴーグルをしたまま、両手で耳を塞ぎ、目を閉じた。
怖かった。そこから、動けなかった。
突然パニックを起こしたひよりを、周りの大人たちは助けてくれた。両親を亡くしたばかりの子供に、大人は優しくしてくれた。
最後の大会には、何にも結果を残せず、泣きながら帰ることになった。
あれ以来、水には怖くて潜れない。
「だから私、もう二度と泳がないって決めて……。高校入って水泳部に声をかけられたときも、断ったんです」
怖かったから。次に潜ったら、両親の声がちゃんと聞こえてしまうかもしれない。何を言っているのかがわかってしまうかもしれない。それが、怖かった。
月歩たちは無言で顔を見合わせている。
「これを私は、心霊現象だとか思わないけど……もしも、私に変わったことが起きたとしたら、思い当たるのはそれぐらいです」
「……そっか」
旭が呟く。
「それは、何か……関係があるかもね。なんか、ごめんね、嫌なことを思い出せせちゃって」
「いいえ」
首を横に振る。
「私こそ、変な空気にさせちゃってすみません」
無理やり笑う。両親のことを聞かれた時、いつもするみたいに。
「……ねぇ」
何かを考えるように机を見つめていた佑助が顔をあげた。
「その声は、なんて言っていたの?」
「え? 聞こえませんでしたけど……」
名前を呼ばれたような気はしたが、何を言われたのかまではわからなかった。怖くてちゃんと聞けなかったというのもあるけれども。
「本当に、恨み節?」
彼は真剣な顔でひよりの顔を見ると、
「応援かもよ」
思ってもみなかったことを言われた。
応援……?
そのあともいくつか質問をされたけれども、ひよりの頭には、佑助の言葉がずっと残っていた。
応援? あの声が?
他の誰かに同じことを言われたら、適当なことを言わないで! と怒ったかもしれない。でも、なぜだろうか。あの人に言われたことなら、信じて試してもいいかもしれない。そんな風に思った。
一度気になると、なかなか意識から消えなかった。
試してみたい気がする。潜って、声を聞きたい。
最近はっきりと思い出せなくなりつつある両親の声が聞こえるのならば、しっかり聞きたい気持ちもある。
そうは思ったけれども、すぐに試すことはできなかった。プールに行くなら、姉に話を通すべきだと思ったから。
最後の大会の日、泣いて帰ってきたひょりを、小春はとても心配していた。そもそも、両親を海難事故で亡くして、ひよりが水泳を続けていることに彼女は不安を感じていた。妹まで、溺れてしまうんじゃないかって。
それをわかっているから、黙ってプールに行こうという気にはなれなかった。
だから、数日待って、姉の機嫌がよさそうな時を見計らって、
「お姉」
声をかける。
「なあに?」
「……私、プール行こうと思うんだけど。久しぶりに泳ごうかなって」
おそるおそる切り出した言葉に、
「いいんじゃない?」
びっくりするぐらいあっけらかんと返された。
思わず小春を見ると、彼女はひょりの驚きに気づいたのかちょっと苦笑すると、のんびりと言葉を続ける。
「水泳やってたころのあんた、キラキラしてたし。部活やめてから、あんまり元気そうなところ見てなくて心配だったし。いいんじゃない? でも」
そこで、表情を引き締めると、
「一人では、ダメ」
強い言葉で告げた。
「お願いだから、誰かと一緒に行って」
いつも強気の姉にしては珍しく、どこかすがりつくような、お願いの言葉に心を打たれる。
一人で溺れてしまったら、助けてもらうこともできないから。
「……うん」
それに頷く。
「友達と一緒に行くから大丈夫」
それに、ひより自身も、一人でプールに行く気にはまだなれなかった
「だからって」
翌日やってきた市民プールの、プールサイドで気だるげに月歩が呟く。
オフシーズンだからか、人は数人しかいない。
「なんでわたしを誘うんですか? あなた、友達なら、たくさんいらっしゃるでしょう?」
呆れたように言う月歩に、
「だって、みんなプール嫌いだって言うから……」
こいつは何冗談を言っているんだ? とでも言いたげな顔をみんなにされた。
スライダーでもあるような、遊べるタイプのプールなら話は違ったかもしれないが、ただ25メートルプールがあるだけの市民プールには、どんなにお願いしても友人が一緒に行ってくれる気配はなかった。
「まあ、年頃の女の子にはいろいろありますものねぇ」
察したのか、月歩が苦笑する。
「卜部さん、そこにこだわりなさそうだから」
「あら、よくわかっていらっしゃるのね」
月歩がゆったりと微笑む。理解されている事が嬉しい、とも取れる笑顔だった。
そんな月歩を上から下までそっと眺める。
出るところは出て、くびれるところはくびれている抜群のプロポーション。それであの性格。水着になるのが恥ずかしいというタイプではないだろう。
「それに、卜部さんに頼むのが一番、安全だと思ったから」
溺れただけなら他の子でも大丈夫かもしれない。最悪、監視員を呼んでくれるぐらいのことはしてくれるだろう。
でも、怪異の出来事があった場合にはそうもいかない。それに対応できる人間は、限られている。
ひよりの言葉に、月歩は少し驚いたような顔をして、
「……そうね」
小さく、美しく笑う。
「大丈夫。わたしが守ってさしあげます」
と、やっぱり守られるお姫様みたいな顔で、宣言した。
月歩はやっぱりどこか儚げで、全面的に守ってくれるというのを信じることはできていなかったが、それでも少し安心した。
「じゃあ、行ってくる」
準備体操を終え、プールに入る。
緊張する。
こんなに潜ることに恐怖を感じることは、これまでになかった。
スタート地点でちょっとためらっていると、
「ダメそうだったら、すぐに引っ張りあげますよ」
プールサイドで、しゃがみこんだ月歩が言う。
「……卜部さんに引っ張りあげることができるの?」
その白くて細い腕を見ながら、思わず問いかけると、
「使い魔が」
微笑みながら言われた。なるほど……。
そのどこか間抜けなやりとりに、なんとなく気がほぐれた。
大丈夫、助けてくれる人がいるというのだから。
大きく深呼吸。
ゴーグルの位置を確認すると、大きく息を吸い込んで、潜った。
水に潜った瞬間に、音がぶれる。隣のコースのおばさんが、泳ぐのに合わせて水音がする。
どうしようか悩んで、ひとまず泳いでみることにした。
足を伸ばして壁を蹴ると、潜水したまま進んで行く。声を聞き逃さないように。
「……り」
少し進むと、声がした。母の声だ。
とっさに立ち上がりそうになるのを、なんとか耐える。
ちゃんと、聞かなくちゃ。
あまり水音をたてないように気をつけて進む。
息が苦しくなるぎりぎりまで、顔をあげたくなかった。
なんとなく、今回を逃したらもう聞けない気がするのだ。
「ひより」
今度ははっきり聞き取れた。自分の名前。
「ひより」
今度は父親の声。
ああ、次はなんて言われるんだろう。恨まれて、いるのだろうか。
怖い、けど。
応援かもよ。
佑助の言葉が蘇る。
そうだ、何を言っているか、ちゃんと聞かなくちゃ。
もう二度と聞けないと思っていたのに、せっかく聞ける両親の声なのだ。ちゃんと聞かなくちゃ。
「……って」
何を言っているの? お母さん。お願い、もっとはっきり言って。
「……り、……って」
「……な」
この際、恨み節でもいいから。ちゃんと声を聞かせて、お父さん。
「が……って」
早く、早く。
早くしないと、コースの反対側についてしまう。
息も、持たなくなってしまう。
でも、今顔をあげたなら、二度と声が聞こえなくなってしまいそうで怖い。ちゃんと、聞かなくちゃ。お姉の分も。
覚悟を決めて、より一層、深く潜った時に、
「がんばって」
声ははっきりと聞こえた。
母の声で。
「ひより、頑張って」
「負けるな」
父の声も。
ああ、はっきりと聞こえた。
右手が、壁につく。
息がもう、持たない。
顔をあげようとした瞬間、もう一つ聞こえた。
「愛してるから、ずっと」
ざばんっと、頭が水から出た瞬間、両親の声も聞こえなくなった。
ああ、でも、恨み節なんかじゃなかった。
ゴーグルを外し、大きく息を吐く。
「その様子なら、大丈夫だったみたいですね」
こちら側に移動してきた月歩が微笑む。
「うん、ありがとう。卜部さん、付き合ってくれて」
両親は怒ってなかった。恨んでなかった。ちゃんと応援してくれていたし、愛してくれていた。
あの時、ちゃんと声を聞かなかったことが残念でならない。そうしたらもしかしたら、自分は水泳を続けていたかもしれないから。
「ならよかった。納得したのなら、帰りましょう?」
月歩が早口で言う。
え、もう? そんな用件が済んだら帰るシステムなの? ようやくプールに入ることに抵抗がなくなったのに?
「せっかくだから、泳いで……」
泳いで帰りたい、そう主張しようとしたものの、月歩の真剣な顔を見て口ごもる。
「もしかして……、何かいるの?」
面倒だから早く帰ろうとする人の顔には見えない。どちらかというと、何かを警戒しているように、見える。
「まだあやふやですが。……ねえ、あなた、誰かに恨まれたりしていません? 本当に、心当たりはないんですか?」
とりあえず、上がってください。と急かされて、プールサイドに上がる。
「そんなこと言われても……」
みんなから好かれていると思うほど、自分のことを高く評価してはいないが、まったく誰からも恨まれていないと言い切れるほどの自信はない。多少の揉め事は経験してきたのだから。
「あなたが泳ぎだした途端、何かが騒ぎだしました。もちろん、あなたのご両親なんかじゃありません」
「そんな……」
「あなたが泳ぐことを快く思っていない怪異がいるようですね」
艶っぽく月歩がため息をつく。
「残念ですけど、もう少し泳ぐのは諦めてください。一応、こちらで調査しますから」
「あ、ありがとう……」
気にするなとは言われてはいるが、お金も払っていないのに、ここまで手助けをしてくれるなんて月歩は優しい。
「いいえ。ひとまず、泳がなければ大丈夫だと思うので」
「うん」
二人して更衣室に向かう。月歩なんて戯れにちょっと水に入っただけで、ほとんど何もしていないけれども。
「でも、よかったです」
シャワーブースに入る直前、月歩が柔らかく微笑んだ。
「あなたとご両親の思い出が、悪いものじゃなくって。嫌な言葉じゃなくって。それだけは本当に、よかったです」
思いがけない優しい言葉に、ちょっとジンときた。
「うん、ありがとう」
こちらも笑顔で頷いた。
何かあらたな厄介ごとの気配にはうんざりするけれども。少なくとも今は、両親の言葉がちゃんと聞こえたことが嬉しい。
佑助の言葉がなかったら、またプールに入ってみようとは思わなかっただろう。そう思うと、本当に彼が姉の言うような悪い人とは思えなくなる。
一体何を信じたらいいのだろう。
そう思いながら、シャワーを浴びた。
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