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右腕編
「猫舌?」
彼は形のいい眉を微かに顰めた。
うん、と穂高は頷きながら手にしたマグカップの中身を見た。とろりとした黄金色の生姜湯は、風邪予防にと彼が煎れてくれた自家製だ。
冬の始まりは相変わらず唐突で、きっぱりと本陣をはる北風に急かされて穂高はルーティンの朝のジョグに出る。戻った後は、せめてオフの間はと精を出す家屋周辺の掃除で、広葉樹が慌てて落とす葉を掃き集めるだけで一仕事だ。
そうして朝食となってひと息つくのを見計らって、一服の準備を彼がする。時とともにバリエーションも増えて、柚子茶や昆布茶、ココアや葛湯のときもあるが、とにかく熱々の飲み物が出される度、穂高は少し身構えるのだ。
「せやから昔から、ちょいちょい舌、火傷してな」
おかげで、温かいものを十分堪能することが出来ないでいる。穂高は生姜の香りを堪能しつつ、そういえばとその昔、舌を火傷したおかげで何故か、デコピンを喰らったことを思い出していた。しかも三回も。
イミフな仕打ちだったよな、と改めて首を捻りながら、穂高は注意深く生姜湯をすする。
彼はそんな穂高をいくらか見つめていたが、ぽつりと、
「おまえ、知らないのか。猫舌は体質じゃないぞ」
「…は?」
たいしつじゃない?
穂高は暫時、ぽかんと彼を見返していたが、慌てて言葉を継ぐ。
「えっ、体質じゃない、って、じゃあなんで、」
「舌の構造、というかシステムだ。熱を感じる箇所が決まってる」
舌の… システム?
再び絶句する穂高に、彼は読んでいた新聞を畳むと、舌の構造を概説する。
「人間、というか哺乳類だろうな、の舌は、場所によって感覚器としての精度が違う」
彼は適当なペンとメモ用紙を摑むと、さらさらと舌とその仕組みを図解した。
「哺乳類の場合、舌先が最も敏感で熱を感じやすく、奥の方はそれほど熱を感じない。だから、熱いものを飲むときは舌先を歯の裏につけて飲めば、そんなに熱くないんだ。それが出来ないホモサピが猫舌」
舌と口腔の断面図まで描いて、彼が丁寧に説明してくれるが、穂高は手の中で生姜湯がゆるゆる冷めていくのを感じる。
「猫は飲み物も食べものも、舌で舐め取るだろう? だから舌先が必ず触れるわけで、どうやったって熱さを感じてしまう。それで猫は熱いものは苦手… ということで、猫舌という語が生まれたんだろう」
皿のミルクをなめる猫を思い出し、穂高は呆然とした。
「だから、舌の使い方さえ覚えれば猫舌ではなくなる、はずだ」
「はあ…」
ぼんやりと頷く穂高に、話がちゃんと通じていないと訝ったか、つまりこの部分、と彼は口を開けて自分の舌を指し示す。
「ここに、その生姜湯がいきなり触れないように、こうやって、」
彼の、きれいなかたちの 薄くて 紅い唇が ちろりと
その先に あかい 舌の先が
あかくて
これは… これか…!
穂高は生唾を飲み込む。
だって、その、彼の舌は…
たとえば、昨夜、幾度も互いに交歓した。
それどころか、それどころか…
はっきりと覚えている。
自分のそこここを辿る、生暖かい、その感触さえ。
「ちょ、ちょっと待って」
「は?」
穂高は思わず顔を覆ってテーブルに突っ伏す。耳まで熱い。
過去の自分の所行も思い出し、もう猫舌克服法を理解するどころではない。恥ずかしさのあまり、あー、とか、うー、とか言葉にならない呻き声が出るばかりである。
「どうした?」
楓は顔さえ上げられない大家の様子に、再び眉根を寄せた。猫舌の話がそんなにダメージを与えるとは、まったく予想外、というか心外だった。
しかし、これは… 何かあるのだろう。
と、即断する。
基本、大家が隠し事をすることはないが(だいたい彼は嘘が下手くそだ)、楓が知らない猫舌に纏わる「何か」があったということだ。
…で、あれば、ゆっくり聞かせて貰うまで。
微かに顎を上げ、楓はもだもだする大家を眺めながら胸の内で呟く。なんせシーズンオフだ、時間はたっぷりある。
楓はひっそりと微笑んだ。
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