捕手編

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捕手編

「箱根かあ」  思わず口に出た。 「…駅伝か?」 「あっ、はい。今年はうちの… 大学が出るので」  意外にも合いの手が入って、ダイニングテーブルに座っていた穂高は慌てて答える。  先輩宅のテレビでは箱根駅伝の特集番組予告が流れている。もうそんな時期だった。穂高はスマフォを手にし、母校系列の出場校のエントリーを確認した。元同級生たちもうまくすればレギュラかもしれない、と検索していると、更に珍しくそのまま話題が続いた。 「ふうん。お前んとこ、今年はどうなの?」 「ええっと、シード権取れればってとこかと… やっぱA学が本命や思います。T大とK大が対抗ですかね」 「ああ、○○さんとか▲▲さん、盛り上がってそうだな」 「▲▲さん、応援行く言うてましたよ」 「マジか。中継所とか大手町とかに?」 「そうですそうです」  と同じく出場校出身の同僚を話題にしながら更にチェックすると、見慣れた名前が見つかった。我らが年目のエースは無事、レギュラに入ったようだ。  穂高が微笑んでいると、また低い声が訊ねてくる。 「誰か出んのか?」 「あ、同級生が。よく一緒に走ってたんで、良かったなって」 「いっしょに、走ってた?」 「は、はい、たまに」  言い直して視線を上げると、キッチンに立つ先輩の眼差しとぶつかった。銀縁メガネの奥、端正な瞳が訝しげに尖っている。先輩はマスクを被るときはコンタクトだが、普段は眼鏡のことも多い。 「おまえ、野球部だったよな?」 「はあ、野球部でした…」  三年の夏に優勝してます、と答えようとして、これは言わない方が良いと判断して呑み込んだ。第一、そんなことを訊かれている時点でアウトである。 「や、おれ、長距離得意だったし、長距離組とはコース同じなんで…」  言い繕ってみるが、先輩の表情はあまり変わらない。ラップを競っていた話はますます出せず、穂高はテレビに見入る振りをした。  そのうち、テーブルにことりとマグカップが置かれる。継いで、きれいに剥かれた柿と林檎が並べられた皿が出て来た。ありがとうございます、と言いながら果実に手をつけると、向かい側に先輩が腰を下ろした。 「ちょっと林檎は早いかもしれない。あと一週間くらいおいてもよかった」  でも美味しいです、と神妙に応えながらマグカップを手にすると、更にふっと思い出す。 「どうした?」  とまた訊かれた。早いなァと感心しつつ、穂高は微かに苦笑しながら続けた。 「むかし、舌を火傷して… 怒られたなって…」 「…怒られた?」  おっちょこちょいをか? と真顔で言われて、反射的にすいませんと謝る。登板時の数々のやらかしを思い出すと、永遠にこのひとに頭が上がる気がしない。 「で、なんで怒られたんだ?」  へえ、この話題は続くんだ、と穂高は内心驚く。先輩とはブルペン以外でも一緒に居る機会がずいぶん増えたが、未だにどの話題がどう興を惹くのか摑みきれていない。なんとなく気配を探りつつ、確か…と切り出した。 「高三のときだったと… 火傷の跡、見せたらデコピンされて… 痛かったなぁと」 「デコピンて。なんで?」 「や、わかんないっす」  そういえば本当に意味が分からなかったな、と今になって首を傾げていると、 「火傷のあとって?」 「あっ、はい、ここらへんって」  穂高は急いで、当時と同じように、たぶんこの辺りと舌をすこし出した。ところで、  つっ、と顎を摘ままれた。  おおう、と驚いて目線を動かすと、予想外に鋭い顔があった。夏、スライダーのサインを無視して投じた直球をバックスクリーンに運ばれたとき、マウンドで見たのと同程度の険しさだ。  先輩の身長は穂高より10は少ないはずだが、穂高は気圧されて、黙る。  ガラス一枚向こうにある瞳は、冷徹に穂高の舌と唇を観察している。  みている。  長い睫毛が微かに揺れて、   これは、とても よくないきがする  脊髄反応ですっと舌を引っ込めると、向こうの眼もこちらを見上げた。それから、先輩は言う。 「艶ぼくろ、だな」 「え?」  ここのホクロ、と穂高の口元の一点を指先で触れる。  あれ、そんなところにホクロがあったっけ? と、穂高は自分でもその場所に手を伸ばすと、  ビシッ  二盗を試みたランナーを捕殺するときの早さと勢いのデコピンだった。 「…っつ!!」  油断したところにこれは辛い、というか酷い。クリティカルヒットに思わず涙目になる穂高に、先輩はいけしゃあしゃあと言うのだ。 「まあそれは自業自得だな。ぜんぶお前が悪い」 「はい!?」  なんでですか! という抗議も当然聞き流された。自分が何をしたというのか? なんで皆して、と穂高としてはまったく納得いかないが、先輩には冷たく言い渡された。 「あとそれ、他のヤツには二度とすんなよ」  えっ、それって、どれ? と、一瞬思ったがまさか口には出来ない。額を抑えながら顔を上げると、先輩は実に不機嫌な貌のままで、すいっと唇を開く。 「デコピンしたのって、柳澤?」  と問うた。 「は?」  やなぎさわ、というと… けいいちろう?  久々に聞く以前の相方の名に、穂高は一瞬、絶句した。  何故ここで彼の名が? と首を傾げるも、高校の頃と言えばまあそうか、と思い直す。そして、半分はそうですけど、と口に出そうとして、止めた。それを言うと、決定的に先輩の機嫌を損ねる気がしたので。  穂高はひとつ息を呑み込んで、顎を引く。 「…そうです」 「ふうん… 柳澤も気の毒にな」  き、きのどく?! 誰が? 圭一郎が!? と穂高は今度こそ言葉を失う。未だ投げ合うのは実現していないが、相方は順調にルーキー街道を邁進している。その柳澤圭一郎への評価にしては、非常に斬新だった。  それはいったい、と穂高が戸惑っていると、先輩は「あー、ほんと残念だな、おまえ」と大きく伸びをした。 「まあいいや、いまは俺のだし。さっさと食えよ」  言いながら自分は柿を一切れ摘まんだ。  よく解らないが、キッパリとダメ出しをされたような気がする。しかも一方的過ぎてたいへん口惜しい。穂高は黙々と林檎と柿を片付ける。 「今日はちょっときつめにやんぞ。覚悟しとけよ」  ええっ、と再び抗議しようとしたが、林檎が邪魔をする。  さーて準備すっか、と先輩は長い足を解くと立ち上がり、リビングを出て行く。  とりあえず今日の練習が厳しくなるらしいが、やっぱり、どうしてなのか分からない。  置いてけぼりを喰らったまま、穂高は長い首を傾げた。  いったい自分は、何をしたというのだろう?
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