秋刀魚

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腕がしびれた。 あまりにも風と畳が気持ち良くてついつい寝てしまった。 それに、さっき供えたお線香の香りでこの部屋の快適さは三割増しだ。こんな絶好の状況、満喫するしかない、このままもう少しだけ… 47歳の彼はもう一度心地よい眠気の波に身を委ねようとしていた。仏間の障子は全開にされこの時期特有の何とも言えない物悲しい風が時折すっと彼の元へ吹いてくる。彼が心地よく微睡んでいると、また風がすっと吹き彼の前にスクリーンが現れパッと映写機のスイッチが入り、映像が映し出された。虚ろな目で見たスクリーンには、物干し竿に吊るされひらひらとなびいているTシャツやタオルの映像。 ああ、洗濯物を取り込むときのにおいだ。 わかってる、もう少ししたら取り込むからそう急かすなって、今日は僕が最後までやるから大丈夫だよ。 彼が意識を再び闇の中へ追いやるのと同時にスクリーンの映像も徐々に薄くなり暗闇が映し出される。 風が再びすっと吹く。今度は朱鷺色のカーディガンが好く似合う女性の呆れた顔が映し出される。彼は女性の顔を良くみようとするが、何せほとんど眠っているような状態の彼は焦点が定まらず顔をハッキリとは確認できない。しかし、彼は確認せずとも知っていた。 顔なんて見なくてもわかってる。貴方がどんな顔して怒ってるかなんて。これは、初めて貴方が僕に怒って喧嘩になった日のにおいだよ。結局あの日は口を利かなかったんだよなぁ。洗濯物でそんなに怒らなくても良かったのに。あれ、その後どうやって仲直りしたんだっけ…… 考えながら彼は眠りの海へ引きずり込まれていく。どこかの家で秋刀魚を焼いているにおいが風にのって運ばれてくる。しかし、今度は彼は目覚めない。 六年も経つのに、この季節になると決まってあの日のことを思い出すんだよ。他に想い出なんてたくさんあるのに。風になんかならないで、においになんてならないで貴方が来てくれればいいのに。違う、泣いてなんかないよ貴方に喜んでもらうために秋刀魚焼いてたら、煙が目に入ったんだって。忘れないよ、初めての仲直りなんだから。 やや濡れた目を擦りながら目覚めると、朱鷺色をしていた町はすっかり闇となっていた。 あ、洗濯物を取り込まないと 彼は立ち上がり干された三日分の洗濯物を手際よく取り込み、すぅと一つ深呼吸してからドアと障子とカーテンを閉めた。今夜はもう彼のもとに風が吹くことはない。しかし、明日もあの日の彼女は風にのって彼の記憶の映写機のスイッチをスッと入れ、スクリーンにまるで'あの日'を'今'のように写し出すだろう。 二人分の過去のにおいを連れて、一人分の秋刀魚を焼こう。
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