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こういうときは仕事に没頭するに限る。
昨日、信じがたい浮気現場を目撃してしまった私は、定時直前になってから申し訳なさそうに残業の依頼を告げてきた上司へ、もはや感謝したい気持ちでいっぱいだった。
時刻は午後七時四十分。
広くもないオフィスの二階、その一角のデスク群に、現在腰を下ろしているのはふたり。私と、私に残業の指示を出した椎名主任だけだ。
椎名主任は、私の直属の上司ではない。課こそ一緒ではあるものの、彼がまとめているのは翔太を含めた数人の部下で、そこに事務業務を中心に任されている私は含まれていなかった。
そんな彼が名指しで私に残業を指示した理由は、部署内で事務業務の知識がある社員に、どうしても今日中に手伝ってもらいたいことがあるからというものだった。
ギリギリになってから残業してくれなんて言い出して、本当にごめんね。
何度も頭を下げる主任に、構いませんから、と返すのももう何度目か分からない。
『そのほうが気楽なので』
何度目かの返事の際、うっかりそう口にしてしまった。
そこからは、ほとんどなし崩し的。昨日目の当たりにした衝撃のできごとを彼に明かす羽目になってしまったのは、今からほんの十分ほど前の話だ。
私と翔太が付き合っていることは、社内の大半の人が知っている。
任されている仕事に違いはあれ、私たちは配属されている課が同じだ。翔太の直属の上司である椎名主任も、私たちの関係を知らないということはないと思う。
温厚で有名な椎名主任も、自分の部下を悪く言われたらさすがに気分を害してしまうだろうか。不安に襲われつつも、吐き出すように昨日の一部始終を話し終えた私には、もう瞼から零れ落ちる涙を拭う気力さえ残っていなかった。
そっと差し出された紺色のハンカチに、ほとんど押しつける形で目頭をくっつける。
「……安藤さん」
「すみません、……私、仕事中にこんな」
「……いいえ」
「うう……だって、社内でって。誰かが見てるかもって、私が見てるかもって、思えないの……?」
椎名主任はなにも言わない。
だからこそ、衝動的に動く口を止めることはますます難しくなる。次から次へと、呪詛のような言葉ばかりが溢れてしまう。
「しかも、壁ドン、なんて。私、そんなの、ドラマとか漫画とか、そういう世界だけの話だと思ってました」
「……うん」
「最悪です、……なんで私がこんな惨めな気持ちにならなきゃいけないの……」
鬱屈とした言葉を途切れ途切れに紡いでは、ハンカチへ両目を押しつける。
ひくひくとしゃくりあげながら泣き続ける私には、そのとき、すぐ隣に座る主任がどんな顔をしていたのか一切見えていなかった。
嗚咽が途絶えた隙を狙ってか、彼の穏やかな声が鼓膜を揺らす。
「ねぇ安藤さん。千葉に裏切られたこと、そんなに悔しい?」
「っ、当たり前です……!」
「そう。じゃあ」
――仕返ししてみたら?
一瞬、聞き間違いかと思った。
穏やかな声と懸け離れた物騒な言葉が聞こえた気がして、私はハンカチに埋めていた顔を上げた。だが、視線の先には普段と変わらず穏やかに微笑む椎名主任の顔があるだけだ。
……なんだ、今の。
やはり私の聞き間違いだったのだろうか。
「……はい?」
「ね? せめて気分だけでも晴らせばいいよ。例えば、千葉たちと同じことしてみちゃったりとか」
「な……そ、そんなの、誰と」
「決まってるだろ」
最後の言葉だけ、まるで別人のようだった。それを耳にして、ようやく私は主任からの「提案」が聞き間違いではなかったのだと悟る。
放たれた声には、普段の穏やかな彼のそれからは想像もつかないくらいの獰猛な気配が宿っていた。見開いた私の両目に映り込むのは、普段と同じ、でもどこかが普段とは決定的に違う椎名主任の微笑みだけだ。
「っ、あ……」
脈絡なく右の手首を掴まれる。
そのまま強引に腕を引かれ、私の身体は座り込んだ椅子から簡単に引き剥がされてしまった。
びくりと震えた私の肩に気づいているのかいないのか、主任は私を連れて足早に壁際まで歩みを進める。
壁のすぐ傍、身体がくるりと反転させられ、そして。
ドン。
鈍い音。
遮られた視界。
握られたままの右手首。
頬をわずかに掠める、緩やかな吐息。
なにもかもが、私を現実から引き離していく。
「あの、椎名主任。冗談はやめ……」
「で?」
「っ、え?」
「あいつら。よりによって職場の階段でなにしてたんだって? ……ああ」
――キス、だっけ。
耳元で囁かれた声は、まるで猛毒だ。
それが鼓膜を貫いて脳へ辿り着くよりも先、椎名主任に拘束されて身動きひとつ取れなくなった私の唇は、彼のそれに簡単に塞がれてしまった。
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