《1》代理意趣返し。

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「ッ、ん、ぅ……ッ!」  ……とんでもないことをされている。  けれど、深い混乱に沈み込んだ私の頭では、まともな考えなどもうとても巡らせられなかった。  唇を緩くなぞるだけだった口づけは、触れては離れ、離れては触れてを何度か繰り返した後、熱の絡み合う深いそれへと変わっていく。  なんだ、このキス。  こんなキスは知らない。私が知っているのは、こんな……こんなものでは、なくて。  不意に脳裏を過ぎったのは、昨日私を裏切った元恋人の顔だった。  今日は、業務中にすら言葉を交わすことがなかった。明らかに私を避けるような素振りばかり見せていた。そんな翔太の顔が、昨日目撃した他の女とのキスシーンに繋がるまで、時間はほとんどかからない。  否応なしに脳裏で再生される悪夢めいたシーンを掻き消すように、口づけが突如激しさを増した。  私の考えが透けて見えてでもいるのか、と訝しくなるほどのタイミングだった。不穏な記憶が脳内を満たしそうになる直前、唇の動きを深められ、私はそれがもたらす熱にあっけなく溺れさせられてしまう。塗り変えられていってしまう。  両目をきつく閉じた瞬間、瞼から涙がひと粒零れ落ちた。  頬を伝うそれを、口元から離れた主任の唇がすかさず辿ったさまが、見えていなくても理解できた。  右の手首は強く握られたまま。壁に押しつけられた身体もさっきのままだ。私を捕えていないほうの腕も、壁に触れる私の頭のすぐ横に添えられている。  絶対に、逃げられない。  吐息がかかる。  頬をゆっくりと辿っていた唇が、再び口元に寄せられたとすぐに理解が及ぶ。 「しゅ、にん……」  口端からつい漏れてしまった声が、自分の耳に届いたか届かないか、そのときだった。  ――ガタン。  事務所の後方、出入り口の方向から聞こえてきた物音に、びくりと全身が跳ねた。  ……誰。残業で残っているのは、私と椎名主任だけなのに。  明らかに人為的な物音がしたきり、事務所内はまた静かになった。誰かが室内に入ってくる様子もない。緊張に全身を強張らせたまま、私は震える喉を無理に動かして声を絞り出す。 「……今、のは」  私の顔色は、きっと一瞬で蒼白になったのだと思う。  それでも私を壁際に縫いつけたきり、顔色ひとつ変えない椎名主任は、震える私の頬を指先でなぞりながら囁いた。 「さあね。タチの悪いネズミでも見てたんじゃない?」  穏やかに笑む椎名主任の人差し指が、頬を離れ、横の壁に貼りつけられたホワイトボードへ向いた。  その動きに操られるかのように、私は首を横へ向けて彼の指先を辿り、ボードに書かれている走り書きの文字を視界に収め……そして息を詰めた。  それは、個々の出勤や外出状況を記すためのホワイトボード。  椎名主任が指差しているのは〝千葉〟の欄だった。 〝外出 長谷川商事 20:00〟  青色の水性マーカーで書かれた文字が、ゆっくりと脳内に入り込んでくる。  弾かれたように対面の壁にかかった壁時計を見やると、時刻は午後八時を少し過ぎたところだった。 「……主任」  カタカタと音がするほど震える唇から、ほとんど無意識のうち、掠れた声が零れ落ちる。 「まさか……全部、知って」 「さあ? 俺はただ、千葉に仕事を頼んで、直帰しないで戻ってきてくれって指示を出しただけだよ。帰社後に見せたいものがあったから」  見せたいもの。  それは、一体なに。  まさか。 「ほら、続きは?」 「な、なに言ってるんですか! そもそも社内でなんてこと……仕事だってまだ途中なんですよっ!?」 「いいよそんなの、わざと安藤さんに振り分けただけだし。今日、君だけが残業になるようにってね」  目の前で微笑む椎名主任は、私の知る彼とは完全に別人だった。  ここにいるのは、穏やかで部下思いで仕事も優秀で……そういう普段の主任ではない。端正な顔立ちと切れ長な瞳の奥に宿っているのは、普段の彼からは想像も及ばないほどの、嫉妬によく似た激情だけだ。 「ああ、そうだ。ひとついいことを教えてあげようか。俺も昨日、あいつらの浮気現場? 見ちゃってたんだよね」 「……え……?」 「安藤さん、全然気づいてなかったでしょう? 本当に馬鹿だよね、あいつ。はっきり言って俺にとってはこんなの、この上ないチャンスでしかなかった」  最後の言葉が耳に届き、今度こそなにも考えられなくなった。  目を閉じてしまいたかった。  私はなにも見ていない。主任の本性も激情も、瞳の奥で揺れる狂気も。  無理にでもそう思い込まなければこれ以上は耐えられない気がして、けれど。 「ふふ、可愛い。やっと俺のものになってくれた……もう放さないよ、可奈(かな)」  一見、普段通りに見える笑みだった。しかし、その瞳の奥には明らかに狂気が宿っている。  目を逸らしたいのにできない。どうやら私はすでに、逃げることさえ不可能なほど頑強にこの男に縛りつけられてしまっているらしかった。身体ごと、心の内側まで。  間髪入れず、再び唇を塞がれる。  徐々に熱を上げていく濃厚な口づけを前に、紡げる思考などもはやひとつたりとも残ってはいなかった。  温厚の仮面を被った上司の、狡猾にもほどがある策略。  見るも簡単に踊らされたのは、元恋人か――それとも私か。
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