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《1》代理意趣返し。
そこを通りかかったのは偶然だった。
時刻は午後八時。残業時間に突入し、とうに二時間強が経過していた。
ちかちかと点滅を繰り返す古びた蛍光灯が、申し訳程度に照らすだけの従業員用階段は、不気味なほど薄暗い。
私はといえば、一階の階段脇の備品倉庫に新しいフラットファイルを取りに向かっただけだ。
なんとなく気味が悪いから、夜の階段は好きではない。だから早々に通過したくて足早に階段を下りようとした、その矢先だった。
すぐ下、踊り場の辺りからだろうか。不意に「あ」と切羽詰まった女性の声が聞こえ、全身が固まった。
さして広くもない、しかも薄暗い照明に照らされた不気味なその場所で、踊り場の壁際に押しつけられているのは、昨年入社した女子社員の河本さん……のように見えた。はっきり言いきれないのは、彼女の姿が、もうひとりその場に居合わせたスーツ姿の男性にほとんど隠れてしまっていたからだ。
社内だというのに、彼女の右手首を左手で壁に縫いつけながら甘ったるい声をあげさせている、その男性は。
「……あ……ッ」
ゴトン。
目にした光景に衝撃を受け、意図せず右足がもつれた。
それが、手すりのすぐ脇へ積まれていた焼却書類入りの段ボールにぶつかってしまう。
音のしたほうへ――私のほうへ、ふたりがはっと視線を向けてくる。
彼らと目が合うより前、私はほとんど逃げるようにその場を後にした。
……どうして。
震える息がなかなか元に戻らない。
河本さんを壁に押しつけて彼女の唇を貪っていたのは、社内恋愛中の私の恋人、千葉翔太その人だった。
不穏な音を掻き鳴らし続ける心臓は、その後もしばらく落ち着かなかった。
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