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そっと本を閉じます。
それは、少女を創った主が記した唯一の本。
君を創った後に、気まぐれに書いたものです――さして面白くもなさそうに、主が以前そう口にしていたことを、少女はぼんやりと思い出していました。
人形を創る仕事をしている主は、数年前までは薬の研究をしていたのだそうです。自分もまた、主によって創られた存在であることを、少女はきちんと理解していました。
大して面白いものでもなかったでしょう、と不意に背後から声が聞こえ、少女は後ろを振り返ります。そこには、壁に身をもたれさせた主の姿がありました。
主の右頬には、ひどい火傷痕があります。元々の端正な顔立ちが、逆に痛々しさを際立たせてしまっていると、それを見るたびに少女は思います。
しかし、少女は決してその痕が嫌いではありませんでした。むしろそこを見つめていると、それだけで、懐かしいような泣きたくなるような、そんな気持ちにさせられてしまうのです。
好き。嫌い。懐かしい。泣きたい。そういう気持ちを、普通の人形は持たないといいます。
でも、自分はそれに近いものを持っているのかもしれない。少女が主にそう伝えたとき、主はどことなく嬉しそうに微笑んでいました。
感想を聞いても良いですか、と、面白くなかっただろうと問うたそれと同じ口で、主はそんなことを尋ねてきました。
妙に楽しそうです。人としての感情が少女に宿っているかもしれないと知ってから、主はこの手の質問を何度も口に上らせていました。
ひとつだけ、気になったことがあります。
興味深そうに目を細めた主へ、本を手にしたまま、少女は問いかけを口にしました。
「溶けてしまった彼女の身体はどうなったのですか……いいえ、もっとはっきり言うなら、なにか残らなかったのですか」
真っ赤なガラス玉によく似た少女の双眸が、ふるりと陽の光を反射し、彼女の主を射抜きます。
さぁどうでしょうねと、主はただ微笑み続けるだけです。それでは答えになっていない、と眉を寄せた少女に、主は今度は声をあげて笑い出しました。
そして少し言葉を切った後、窓の外へ視線を移しながら、静かに口を開きました。
「君は、彼女が幸せだったと思いますか」
問う声は少しだけ震えていました。
普段、滅多に揺れ動かない目の奥も、微かに。
私には分かりません。少女にはそうとしか答えられませんでした。
張り詰めた空気の中、ふ、と笑う主の声がしました。そうですね、君は彼女ではない。少女へと向き直った主のその声には、諦めによく似た色が宿っていました。
……どうしてでしょう。
それを耳にした途端、少女の胸がぎゅうっと締めつけられました。そして、真っ赤なガラス玉の目から、大粒の涙がぽろりと零れ落ちたのです。
目を瞠った主はなにも言いません。少女もなにも言えませんでした。人形である自分が涙を流すことなどあり得ないと、ずっとそう思っていたからです。
それでも涙は止まりません。ぽろぽろ、ぽろぽろ、目尻を零れ落ちては頬を伝い、顎をなぞり、そして最後には淡い色をしたドレスにしみを作るばかりです。
一歩、また一歩と、主が少女の傍へ歩み寄ります。
親指で少女の目尻をそっと拭った主は、ありがとう、と静かに口にしました。
それは今まで一度も耳にしたことがなかった声。優しくて哀しくて痛くて、息が苦しくなるような、主の声でした。
でもどうしてでしょうか。いつかどこかでそれと同じ声を聞いたことがある、確かにそんな気がしてしまうのです。
己の腕の中に少女の身体を抱え込んだ主の顔は、少女にはもう見えません。
それでも、視界が遮られる直前、少女の目には確かに、火傷の痕を濡らすひと筋の涙が映り込んでいました。
〈了〉
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