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「月って、ちょっと怖いよね」
マンションの窓の縁に腰掛けて、まだ明るさの残る空を見ながら、優は言った。
「怖い?」
清良は洗い物をしながら、聞き咎める。カチャカチャと食器が鳴り、あまりよく聞こえない。
優にも清良の声は耳に届いていないようで、返事もせずに月に見入っていた。ひょっとしたら、清良に話しかけたわけではないのかもしれない。
怖いという割に、優は月から目を離そうとはしない。清良は最後のコップを洗い終え、カゴに伏せると、タオルで手を拭い、優の横から顔を覗かせた。
なるほど、薄墨を塗ったような空に、半月が浮かんでいた。ただ、清良には何が怖いのかさっぱり分からない。ちょうど半分の月は、上手に切れたケーキのようで、清良には可愛らしく見えた。
「上弦の月って言うんだよ」
優が教えてくれたので、清良はへぇっと相槌を打った。月を弓に見立てて、弓張り月ともいう。日本語は美しい。
「鏡みたい」
優が呟くように言った。
「鏡?」
清良は訊き返したが、思わずため息も漏れてしまった。二週間ほど前拾ったこの男は、どうやらロマンチストらしい。
現実的で、仕事の後のビールが一番幸せという清良には、ちょっと手に余りそうだ。
優はそんな清良の様子にもおかまいなしに、月から目を離すと、清良に笑いかけた。
この微笑み。これだけで拾ってしまった。
自分でも、馬鹿のことをしたと思っている。普段は男に誘われても、警戒心が先に立って、チャンスを逃してしまう方なのに、マンションのエントランスでうずくまっていたこの男に、なぜか声をかけてしまった。
顔を上げた男の顔に、清良は思わず息を呑んだ。
天使みたい。
天使と形容するほど男は子どもではなかった。ただ、顔を上げて微笑んだ。その顔はきっちりと美しかったが、ふんわりと柔らかかった。
天使みたいな男。
その後、お腹がすいてもう歩けないと言う男を、部屋に上げてしまったのだ。
悪い人には見えなかったから、と言ったら、自分でも馬鹿に思えるな。
あの時と同じ微笑みを見返して、清良は笑ってしまった。
優がいぶかし気に眉を寄せる。
「何?」
「いや……」
一度笑ってしまったら、止まらなくなってしまった。
「なんでこんなことしたのかな、と思って」
「僕を拾ったこと?」
「そう」
清良が頷くと、優はまたふわりと笑って、清良の髪に指を滑り込ませた。
「あの日は新月だったからね」
だったから?
「大潮だよ。血潮も引っ張られる」
そう言うと、清良を引き寄せて、くちづけた。甘いキス。
血潮を引っ張られて、正体不明の男を拾ったあの夜から、幾度となく交わした口づけ。それに続く甘い予感に、清良は身を震わせた。
結局は捕まってしまったのだと思う。
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