第五連鎖 「ハジメテノオツカイ」

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第五連鎖 「ハジメテノオツカイ」

夏休み最終日、台風が近付いている夜。 団地の最上階の自宅から転落死したのは、ボスと呼ばれている少年。 遺体の検視が済んで現場検証に進んでいた。 事故と自殺の両方の線で捜査が進められている。 …だがどちらにしても、その過程へ至る動機が不明であった。 事故だとするなら、何故ベランダに裸足で出て行ったのか? 専用のサンダルは揃えて置かれており、履かれた形跡が無い。 サンダルを履いていたなら、胸の高さのベランダ枠を越えにくいだろう。 更に強風にも関わらずベランダへの窓は開けられたままである。 テレビもパソコンも消されていた、これらの説明が付かない。 もしも自殺なら、一番肝心な動機が不明なままである。 もちろんボスの母親には、全く思い当たる事が無かったのだ。 彼女は彼が死んだ事も理解していない様である。 何故なら、再びキッチンでビーフシチューを煮込み始めたのだ。 見張りの巡査にも、もう彼女が壊れ始めている事は理解出来た…。 どちらにしても、鍵を握っていると思われたスマホが見付からない。 警察が探しているのにも関わらず、である。 転落の衝撃で何処かに跳ばされたのは確実であろう。 …或いは少年を吊るした木々が、その葉陰で隠しているのだろうか? もし自殺だと断定されたら、同じクラスから同時に二人。 イジメの被害者と加害者が入れ替わり、互いを自殺させた事になる。 くるくる…くるくる…、入れ替わって。 遺体の検視が済んで搬送が終わった。 現場検証の時に、もっと注意深く見ていれば異変に気付いた筈である。 遺体の直ぐ上の階のベランダを調べていけば、そのヒビは見えただろう。 そのガラスに小さく描かれた蜘蛛の巣状の亀裂。 だが窓の中のカーテンの色と同化して、夕闇の中では見付からなかったのだ。 その部屋の住人はネガと呼ばれている女性の教師である。 団地内の学校に勤務していたのだ。 悲惨な死を遂げた二人の少年のクラス担任でもある。 まだ彼女には誰も連絡しようとはしていない。 だが彼女は知っていた、…知ってしまっていたのだ。 そして、その彼女もまた…。 踏切を撮影していたカメラが、事故の一部始終を映像に記録していた。 確かに彼女は独りで自転車で線路内に侵入、急停止したままである。 警報が鳴り始め、遮断機が目の前を降りてきているにも関わらず。 彼女は微動だにせず、何かを叫んでいる様であった。 次の瞬間、カーブを曲がってきた快速電車に撥ねられる。 …映像で見る限りでは、自殺でしか在り得ないのだが。 その映像には最初から最後まで彼女しか映っていない。 だがしかし、彼女の動作はどことなく不自然で奇妙であった。 まるでパントマイムで、透明人間に語り掛けている様な雰囲気である。 とても自殺には見えない。 もし自殺と断定されたら、同じクラスから三人目となりえる。 転落死した生徒も、その状況から自殺の可能性を取り沙汰されていた。 生徒が二人と、その担任。 しかも同日、夏休み最終日に。 こんな事が在るのだろうか…? 彼女からの訪問の連絡を受けて、ネガの両親は待ち侘びていた。 近くに住んでいるとはいえ、一人娘が会いに来るのである。 彼等に取っては、台風様様であった。 彼女が一人暮らしを選んだ時に、両親は大層がっかりした。 父親の方は不眠症になってしまい、通院する程である。 しかし彼女が泊まりで遊びに来た日だけは、熟睡出来るのであった。 一人娘が精神安定剤だったのだ。 台風が去る迄、ずっと一緒にいて欲しい。 娘からは自転車で向かうから…、との連絡が在った。 まだ霧雨だからって自転車で来るなんて、…快速電車なら早いのに。 彼等は呆れつつも笑いながら話していた。 まだ彼等はニュース速報を見ていなかったのである。 快速電車は人身事故で不通となっていたという事を…。 霧雨とはいえ降ってきていた、風も強くなってきている。 彼等は庭で飼っている大型犬をガレージに入れようとしていた。 だが何度試しても頑なに屋内に入ろうとはしない。 …その犬は彼女が来る事を知っているのだ。 引っ越して庭が出来た両親の家だからこそ飼える大型犬。 その犬をペットショップで選んだのも彼女であった。 名前も彼女が付けたのである。 それはポジティブから取ったポジ。 ネガティブ思考からネガと名付けられた事への、彼女らしい抵抗。 両親が名前の由来を尋ねても、ポジティブだから…としか答えなかった。 「ポーちゃん、おいでー。」 彼女はポジが大好きだった、ポジも彼女が大好きだった。 相思相愛。 此処に来るのは両親よりもポジに会う為の方が多かった位だ。 両親が心配し始めて見つめていた窓の外。 突然ポジが立ち上がり猛烈に尻尾を振り始めた。 玄関の先の門に近付いて行く。 「おっ、着いたのかな?」 二人は揃って窓に近付いた。 だが幾ら待っても彼女の姿は見えない。 なのにポジは尻尾を振り続けていて止めない。 「…?」 「…?」 二人でポジを見ながら顔を見合わせていた。 その時である。 背後で家の電話と主人の携帯電話が同時に鳴った…。 快速電車に撥ねられた時にネガは即死した。 時速130キロで鉄の塊に殴られるのだから、生きていられる訳が無い。 その衝撃で彼女の顔半分は潰れ、身体中の骨は砕けた。 かつて彼女であった肉塊は遠くまで跳ばされたのである。 急停車した乗客の殆どが、その安否を絶望視していた。 誰もが冥福を祈るしか出来ない状況下。 だがしかし、監視カメラの視線が届かない所で不思議な事が起きていた。 それは呪いの具現化と言っても過言ではない。 即死。 かつて彼女だった存在は離れ離れになっていた。 もちろん心臓も脳も停止している、全く動いていない。 利き腕である右腕も彼女から遠く離れてしまった。 …だがしかし、彼女の残っている左腕だけは蠢いていた。 ネガは霧雨に濡れない様にリュックにスマホを入れていた。 自分の物と、もう一つ。 捨てられずに警察に届けようとしていた、転落死したボスの物。 中には自殺した少年のデスマスクの写真。 両方とも電車と衝突した衝撃で壊れていた。 それなのに左腕の指が触れた途端にボスのスマホの電源が入る。 彼女の指はタッチパネルを操作し始めた。 指だけで何処かに何かを送信する。 そして、それから送信履歴を削除したのだ。 次の瞬間、壊れていた彼女自身のスマホが起動した。 受信したのは自殺した少年のデスマスクの画像である。 ボスを自殺へと追い込んだ首だけの写真。 彼女はボスのスマホから転送したのであった。 そして左腕で自分のスマホを掴み直して操作し始める。 彼女の指は、それを或るメールに添付して送信した。 一斉送信であった。 …それから再び送信履歴を削除した。 彼女は死して尚、自分で蒔いたのだ。 種を。 一連の動作が終わると彼女は停止した。 今度こそ、完全に死んだのだ。 だが彼女の潰れてしまった血まみれの顔は、一瞬だけ微笑んだ。 それから彼女は、その笑顔も削除した。 両方のスマホも完全に壊れた。 もう二度と起動する事は出来ない。 これで彼女が最期に何を何処に送信したのか判らなくなった。 …履歴を解析するには時間が掛かるだろう。 その一連の不気味で信じられない動作の一部始終。 事故に駆け付けて来た駅員や運転手は見ていない。 それは、とても幸運な事であった。 もしも目撃してしまっていたとしたら…。 …連鎖してしまうだろう。 台風情報の映像の中に、字幕でニュース速報が流れた。 快速電車の人身事故による不通の情報である。 踏切での自転車との接触による死亡事故との事だった。 その字幕を目で追っていた彼は、ふいに或る場面を思い出した。 自殺した少年の第一発見者になってしまった時の事である。 警察を待っていた彼は公園のベンチに座っていた。 そこで彼は無意識に嗚咽を繰り返し泣いていたのだ。 ふいに近くをレインコートを羽織った女性が通る。 風が強まっているのに、自転車で出掛けようとしていた。 霧雨で判りにくかったが、彼女も泣いている様である。 ほんの小さく繰り返されている嗚咽が、聴こえた様な気もした。 あの時の自転車の彼女…。 …まさか。 ネガの事故死の一報を受けた電話の後、彼女の両親も動かなくなった。 動けなくなってしまっていた。 遺体の確認と遺品の受け渡しの説明も聞こえていない。 あらゆる言葉が何の意味も持たなくなった。 二人の頭の中も感情も、ただ一つの思いで一杯であった。 …まさか。 受話器を置いてから、一体どれ程の時間が過ぎたのか。 …或る意味では彼等も死んでしまった。 リビングのサイドボードの上には写真が飾られていた。 仔犬のポジを前にして楽しそうな親子三人の写真。 その舞台は、引っ越したばかりの此処の庭である。 今その庭からポジが両親を眺めている、尻尾を振りながら。 母親は寝室からアルバムを持ち出してきた。 無言でページを捲り始める。 それは娘の写真ばかりのアルバムであった。 父親も横に来て座り、一緒になって眺め始める。 楽しかった思い出ほど、時には鋭利な凶器になってしまう。 今、彼等は知らずに自分達を刺し続けているのだ。 そして、その見えない出血量は致死量に達してしまった。 …致命傷である。 父親は、その写真の下の扉を開けて酒瓶を取り出した。 それは酒好きの父親にネガがプレゼントした物である。 極上の梅酒。 それを父親はそれを江戸切子のグラスに注ぎ始めた。 またそれも、娘からプレゼントされたお気に入りの物である。 「母さん、いつものを…。」 母親はハッとしてから、直ぐに理解した。 いつもの睡眠薬である。 この状況で眠る為には確かに必要であろう。 …だが。 その取り出された薬用ボトルには、まだ三か月分は残っている。 「分けるとするか…。」 彼は無造作に彼女に対して持ち掛けた。 その言葉には悲しみと、ほんの少しの優しさが含まれていた。 母親は何も言わずに自分の好きな茶を淹れ始める。 彼女も瞬時に言われた事を理解した。 そして提案を呑み込んだのだ。 二人の覚悟は、もう既に出来上がっていた。 …と言うよりは、それが最期の希望ですらあったのだ。 これだけの量なら半分ずつにしても効果は充分だろう。 変わり果てた娘に会いたくはない。 自分達にとって娘は、掛け替えの無い宝物なのだから。 可愛いままの彼女の想い出を壊したくはない。 娘のいなくなった世界にも何ら未練は無かったのである。 彼女に会いたい。 娘に会いに行こう。 独りぼっちでは余りに可哀そうだ。 最期の準備をしている二人の様子を庭から大型犬が見つめていた。 そしてその後ろには人影が立っていたのである。 …娘のネガだった。 二人の自慢の可愛いままの姿である。 彼女もまた、自分を追おうとしている両親を見つめていた。 だが両親には、会いたかった娘の姿は見えてはいない。 大型犬のポジがネガを振り返る。 彼女は悲しそうな微笑みをポジに返した。 お前は連れて行けないね…。 だがそれだけで、ポジは喜んで尻尾を振り回している。 彼女は両親を呼んでいるのだ。 自分の最後の姿を二人にだけは見せたくはなかった。 二人に会わせる顔は、もう潰れてしまっている。 そして二人を残してしまうのは心残りである。 何より独りは寂し過ぎた。 死して尚、彼女は孤独を受け容れられなかったのだ。 ネガとポジが見ている内に、両親は眠りに落ちた様である。 ただ、気持ち良さそうな寝息は聴こえてはこない。 口元からは魂の様な白い泡が少し溢れ出ている。 …永遠の眠りに落ちたのだ。 暫くしてポジが振り返ると、もう彼女はいない。 目の前のお父さんとお母さんは動かなくなってしまった。 自分はどうすれば良いのだろう…? 庭の柵に沿って歩き始めた。 くるくる…、くるくる…。 門の前まで来た時にポジは見付けた。 家から離れていく三人の姿を。 親子仲良く歩いて行く、見慣れた姿を。 あれ? 今日は散歩に連れて行ってくれないのかな? 置いて行かないで…。 ポジは門の横の花壇に登り、そこから柵を飛び越えた。 道路に出て、もう見えない三人を追う。 此処で待っていても、三人は帰って来ない。 その事が解っていたのだ。 教師の娘は永遠の夏休みに入ってしまった。 仲の良い両親は娘と一緒に過ごす事を選んだ。 彼等の夏休みも終わらない事となった。 …だが家族の一員であった筈のポジは? 動物には自らの命を捨てるという選択肢は無い。 ポジは自殺という事が理解出来ない。 また、その必要も無かった。 …どっちへ進んだら良いのだろう? ポジは十字路で途方に暮れてしまっていた。 行先は三つに分かれている。 その時である。 ポジには彼女の呼ぶ声が聴こえた。 軽く遠吠えで返事をして、そっちの道に向かって歩いて行く…。 「ポーちゃん、おいでー。」
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