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「暗いね」 ぽつん、と。 降り始めた雨の最初の一滴のように、彼女は言った。 彼女が言う通り、辺りは真っ暗だった。 それもそのはず。 ここはフェンスを乗り越えていくような変わり者しか来ない真夜中の浜辺なのだから。 あるのは、星と月と海と砂。 それから変わり者の僕と彼女だけ。 「夜だからね」 彼女の言葉にそう答える。 時計なんて見ていないけど、真っ暗な空と海を見ていれば誰だって今が夜だとわかるだろう。 浜辺で座る僕と彼女の方が、異質なのだ。 「まだ殺してくれないの?」 彼女が言った。 目の前にあるお菓子を食べてはいけないと言われている子供のような調子で言った。 僕はとっておきのナイフを用意している。 綺麗に丁寧に、磨いたナイフを。 「もう殺していいの?」 ナイフを取り出す代わりに、彼女に問うた。 ただの時間稼ぎだ。 彼女が三十万回は見たであろう月を、一緒に眺めていたいためだけの悪あがき。 彼女はそれすらわかっているのかもしれなかった。 わかっていてこの時間につき合ってくれる彼女は、とても優しいのだろう。 「もう少し月を見たいな」 「じゃあ、もう少し眺めていようか」 二人、砂浜で静かに月を眺める。 月明かりがゆっくりその場を満たしていく。 彼女が月に照らされた様子は、神秘的だった。 とても、彼女が八百歳には見えない。 もちろん彼女は、どこからどう見ても学校に通っているような少女なのだけど。 月が少しだけ動いたくらいの時間が経った。 月は彼女を照らしている。 僕の姿は照らされているのかわからない。 案外、彼女のところにだけ月明かりが差しているのかもしれなかった。 「そろそろ行こうよ」 彼女がつぶやいた。 静かな浜辺では、そんな小さな声もよく響く。 そのことがとても不思議だった。 「わかった」 僕はうなずいた。 穏やかな時間が長く続かないのと同じで、月もいつかは沈んで夜もいつかは明けてしまう。 夜が好きな彼女と僕は、夜の中で死にたかった。 どちらともなく合図したように立ち上がり、少し歩いた先にある崖へ行く。 小さな声の響き方よりも不思議な地形だ。 「ここでいいかな?」 「ここでいいよね」 僕と彼女が目指したのは確かにここなのに、確かめあっている僕らは少し可笑しい。 崖の先端に立つ彼女は、神秘的な月明かりに照らされて言葉で表せないほど美しかった。 「さようなら」 彼女にそう言って、細い体にナイフを刺した。 僕は全身に彼女の血を浴びる。 「ありがとう」 そう言って彼女は微笑んだ。 月明かりの下でしか咲かない花があるという。 見たこともないその花が彼女の周りで咲き誇っているような、そんな錯覚。 「どうしたしまして」 彼女の微笑みに返せる言葉をこれしか持たない僕は、やはり血にまみれているのが一番なのだろう。 血に濡れたまま、彼女を抱き締めた。 そして、そのまま崖から落ちる。 こんな風に見る月も案外悪くないと思った。
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