第一章 ひび割れたガラスの靴

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   四、  警視庁本部、科学捜査研究所。通称『科捜研』と呼ばれる研究施設に足を踏み入れた御伽は、早々に篤い歓迎の言葉を掛けられた。 「待ってたよ、栞ちゃん」  白衣を羽織った四十代くらいの男性が笑顔で出迎えてくる。きりっとした眉に、頬骨がくっきりとして、口の大きい、何処かしら深海魚に似た愛嬌のある顔をしていた。造りは悪くないのだが、一度見たら忘れられない、独特な雰囲気を放っている。  胸に貼られた名札には『安藤(あんどう)准弥(じゅんや)』とある。肩書は所長と記され、まだ若いが、この研究所の責任者であると示していた。  彼が片手を挙げたのを合図に、御伽も鏡合わせに手を挙げる。次の瞬間、二人はまるでアメリカ映画にあるようなハンドシェイクを繰り広げた。向かい合った二人が同じタイミングで手を打ち鳴らす。絶妙なコンビネーションで最後の決めポーズまで完成させた。 「は? え、何だ今の?」  後ろから追ってきていた金森が呆気に取られたように声を上げた。混乱して立ち尽くしているのが気配で分かったが、いちいち説明するのも面倒である。聞き流すことにした御伽は、彼を放置して安藤に話を振った。 「で、結果が出たって話だけど」 「ああ。これだよ」  安藤もまた、御伽に倣って金森の様子には見て見ぬふりをするらしい。何食わぬ顔で分析結果を記した書類を差し出した。  周囲にいる研究員達も「関わりたくない」といわんばかりに作業に没頭している。残念なことに、金森の疑問に答える者はいないようだ。 「やっぱりね」  書類に目を通していた御伽が呟くと、金森も彼女の手元を覗き込んだ。 「何かあったのか?」 「まあ、予想通りって感じっす」  淡々と答えた御伽は書類を手渡すが、受け取った金森は顔を顰める。何が書いてあるのか正確に読み取れないらしい。困惑している彼を見て、安藤が噴き出した。 「栞ちゃん。分析結果の書類を突き出されても、大抵の警察官は読めないよ」 「マジっすか」  御伽は僅かに目を丸くして金森の顔を見上げる。こうして他人の前で表情に大きな変化を見せるのは珍しいことなのだが、金森は気付くことなく、馬鹿にされたと思ってか不満を滲ませた。 「いいねえ。天然な栞ちゃん、マジ可愛い」  ばっちりと御伽の変化を見ていた安藤は目尻を下げ、素早くスマートフォンで撮影してくる。慣れている御伽は特に気にも留めていなかったが、金森はぎょっとしていた。  二人の関係性が分からなくて混乱しているのだろう。御伽と安藤を交互に見て、居心地悪そうに視線を逸らす。何か勘違いをしている気はしたが、特に訂正することなく御伽は放置した。  何枚か御伽の写真を撮って満足した安藤は、何事もなかったかのように「さて」と声を掛ける。 「金森さんにも分かりやすく説明させて頂きますね」  改めて書類を手に取った彼が分析結果についての解説を始めた。 「まず、ご遺体が付けていたオーデトワレですが、一致したのはこちらの製品です」  安藤が棚から取り出したボトルケースをテーブルの上に置いた。現場から出る前に、御伽が鑑識官に頼んで回収して貰っていたものだ。ボトルには透き通った水色の液体が入っている。更に、カクテルのようにグラデーションになっていて、見るだけでも楽しめそうな色合いだ。 「ミラークイーン社の商品っす」 「よく知ってんだな」  金森が少し意外そうに御伽を見てきた。言いたいことは分かる。香水に興味があるようには思えないのだろう。  何よりこれは男性ものだ。身近な男性が使っているというものでもない限り、すぐに答えるのはそう簡単ではない。特にお洒落に気を遣っているようには見えない御伽が詳しいことに、どうにも違和感があったようだ。 「プレゼントに買ったことがあるんで」  誰に、とは言わなかったが、金森は察したように安藤を見た。そのプレゼントを受け取った相手は彼だと思ったようだ。御伽はちらっと視線を向けただけで訂正はしなかった。 「香水は時間によって匂いが変化するものなんですが、この製品はその特徴を活かして、時間による経過で香りを変えて楽しめるように、というコンセプトで製造されています。実際に嗅いで貰ったら分かると思うんですが――」  安藤が脱脂綿を入れた小さなビニール袋を三枚差し出す。一枚ずつに「噴き掛け直後」「三時間経過後」「六時間経過以降」と書かれている。袋を開けてそれぞれの匂いを嗅いだ金森は渋い顔で唸った。 「確かに違う匂いだ」 「死亡推定時刻から考えると、本来であればこの『六時間経過以降』と書かれたものと同じ香りがするはずなんですが、栞ちゃんの話では、こちらの『三時間経過後』の香りがしていたようです」 「身近に嗅ぎ慣れている香りなので間違いないっす」  御伽は自信をもって言った。 「更に、面白いことにご遺体からはもう一種類の香りが漂っていました」 「それがこちらです」  安藤がもう一つのボトルを取り出し、青いボトルの隣に並べた。中には黄色い液体が入っている。同じように脱脂綿の入ったビニール袋を差し出され、匂いを嗅いだ金森は目を丸くした。 「最初に嗅いだやつと同じ匂いだな」 「そうなんです。成分は多少異なるんですが、人間の鼻には同じ香りとして感じるようになっています」  彼の説明に金森は首を傾げる。いまいち理解出来ていないようだった。その様子を見て、御伽は気怠そうに頭を掻いた。 「恐らく被害者は元々この別社のトワレを使っていたんでしょう。その時に嗅ぎ取った香りをこちらのものと勘違いして、誰かが改めてミラークイーン社のものを噴き掛けたんす」 「つまり、これで何者かの関与が証明されたってことか」  腕を組んだ金森が難しい表情を浮かべる。 「御伽が嗅いだものが本当に三時間から六時間の段階の匂いだとするなら、香水を付け直した人間も到着時間から逆算すれば割り出せる。お前が現場に着いたのは――」 「午前十時頃っす」  御伽の答えを聞いた金森は、険しい視線を向けてきた。 「お前が言ったように、どうやらもう一度伊吹に話を聞く必要がありそうだ」
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