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いきなり肩を掴まれた。何、と思って理人を見る。彼は何か信じられないものを見つけたような表情で、眉をひそめ瞠若していた。戦慄く唇に深い怒りを湛え、なまじ顔が整っているだけに迫力が凄まじい。
掴まれた右肩が、痛みに軋む。とんでもない握力で掴まれて、体が強張った。
「っ、痛いっ」
「誰」
「え?」
「誰に、こんなこと許した?」
言われていることの意味が分からない。不思議に思って小首を傾げれば、理人が席を立って強引に晶の腕を引いた。周囲の目が晶たちに集まる。
一体どうしたというのか、理人は晶の腕を引いたまま入ったばかりの店を出た。何度か広い背中に声をかけてみたが、全て無駄だった。
彼が何に怒っているのか皆目見当がつかない。足早に先を行くものだから、晶ではほとんど小走りについて行かなければならなかった。
掴まれた手首が痛い。
(痛い、痛い、いたい……イタイ……っ)
痛い。
ギュッと足を踏ん張って、力任せに理人の手を払う。
こちらを振り返った理人は、睨む晶にハッとした様子でようやく立ち止まった。
「ご、ごめん。晶……」
「……帰ろ。もう、いいだろ? 予行練習、終わり」
「予行練習?」
「焼肉屋で言ってたじゃん。好きな子がいるって。だから今日、下見に来たんだろ?」
てっきりすぐに頷かれると思ったのに、何も返事がない。
沈黙が落ちる。真っ直ぐに見下ろされて、視線の強さとその圧倒的な気配に首を竦める。悔しいが、こう黙っていられると怖い。何もしていないのに、悪いことをしている気分だ。
「――そう、か。本当に……全然、伝わってないのか」
「?」
「鈍感だとは思ってたけど、まさかここまでとは……」
「理人?」
「いや、なんでも。ごめんね? 僕が悪かった」
妙に迫力を帯びた、キラキラした笑顔がすぐそこ。
理人は一言断ってから少し離れ、自身のスマートフォンでどこかへ連絡を取り始める。相手に一言二言伝えると、すぐに電話を切ってこちらに戻って来た。
「それじゃ、行こうか」
肩を抱かれて先を促される。どこへ行くのか、何故肩を抱くのか、晶は困惑して理人から少し離れようとしたが今度も駄目だった。
「急にあんなものを付けてくるから、頭に血が上って。腕、部屋で冷やそう」
「部屋?」
「あそこだよ」
そう言って指差されたのは、テーマパークの敷地内にあるロココ調のホテル。先日佐賀美グループがオープンさせた、今話題の高級ホテルだ。
佐賀美グループは今、理人の兄が社長職にある。一番上の兄とはかなり年が離れていて一回り以上違うと聞いた。四人兄弟の末っ子。それが理人だ。
男ばかり四人と聞いた時は凄いなと思ったが、一人っ子の晶には羨ましい部分も沢山あった。特に三つ違いの三番目の兄とは仲が良いようで、たまに兄が経営しているバーに飲みに出向いているらしい。バーは趣味でやっているらしく、本職はグループの関連会社の常務殿だ。
「なんで、部屋?」
「明日は祭日で大学もないし、せっかくだから」
理由になっているような、ないような。
「それに、話があるって言ったよね?」
そうだった。さっき、トイレでもそれを考えていた。この予行練習の合間に、また何か相談を受けるのだろうと思っていたが、まさか部屋を取っていようとは。よほど大層な相談事なのかもしれない。
(もしかして、略奪系? まさか、会社の職員さんとの不倫……)
理人なら何があってもおかしくないところが、ある意味怖い。
なんだかんだと肩は抱かれたまま中に入り、シンプルだが洗練されたホールに晶はポカンと口を開けて上を見上げてしまう。
きっと、学生が気軽に泊っていいようなホテルではない。それなのに理人は慣れた様子でフロントに向かい、そこで先に待っていた壮年の男性に軽く手を挙げてみせた。
「理人様、お待ちしておりました」
「予定が早まったんだ。悪いな」
「とんでもございません。お部屋はご用意しておりますので、すぐにご案内できます」
「ありがとう。晶、彼は神田といって元々は僕の執事だった男だよ。僕の成人を機に、兄がこのホテルを任せると抜擢してね。今は、ここの総支配人をしている」
「執事? 理人、執事がいたの?」
「うちは、成人するまで世話役と教育係兼任の執事が付くんだ。家の方針で。それで僕には、この神田が」
さすがは佐賀美家。一人につき執事一人とは恐れ入る。
神田と呼ばれた壮年の男性を見た。いかにも仕事ができそうな凛とした佇まい。不惑、の二文字がピッタリな美貌の男性は、一体何歳で理人の執事になったのか。執事からいきなりホテルの総支配人を任されるなんて、彼の有能ぶりが伺える。
「お初にお目にかかります、わたくし神田清座と申します。理人様からお噂はかねがね。本日は、どうぞ当ホテルでお寛ぎください」
「ありがとうございます。鳴川晶といいます。事故の際は、佐賀美家の皆様にもご迷惑をおかけしました」
「晶、あれは僕が悪いんだ」
「え? いや、違うよ。だって俺が」
「理人様」
晶の台詞を遮るようにして、神田が声をかける。ニコニコと、どこかで見たような笑顔がそこにあった。笑顔なのに、一ミリも隙が無くどこか怖いのだ。
「ここではなんですので、お部屋に上がられてはいかがでしょうか? 一弥様からお二人へシャンパンも届いております」
「一兄から?」
「はい。他にも、聡二様からは花束が。光稀様からは晶様がお好きだと伺ったショートケーキが。お部屋にご準備しております」
光稀とは、確か一番仲がいいと言っていた三男の名だ。一弥が一番上で、二番目が聡二なのだろう。兄弟揃っての贈り物に、晶は隣の理人を見た。
「今日、誕生日だったの?」
「違う……かな」
「晶様。もちろんこちらは、お二人の新しい」
「神田」
諫めるような口調に、神田が口を噤む。多少なりとも驚いたその顔は、理人と晶を見比べて何やら察したものに気配を変えた。
「で、では……まだ?」
「……予想以上に、鈍いんだ」
晶からでは聞こえない声量で何やら話している二人に、小首を傾げる。神田と目が合い不思議そうにすれば、彼は隣の理人を見て心底憐れんだ表情を浮かべた。
訳の分からないやり取りであったが、それを尋ねられる空気ではない。仕方なく黙っていると、苦笑を浮かべた理人が晶の背を押した。フロアの奥にあるエレベーターまで案内する。
先を行く神田が扉を開き、二人を促した。自らスイッチの前に立つとカードキーを挿入口に入れ、スイッチを押す。
「このエレベーターは直通になっております。こちらがキーです」
内ポケットから差し出したキーを神田が理人に手渡す。理人は一つ頷いて受け取り、自らのカードケースに仕舞った。
それを傍で見ながら、晶はこれから案内される部屋に不安を覚える。直通で向かう部屋。きっと、ただの部屋ではない。ここの入場料もチケットを貰ったからと払っていないから、せめて宿泊費くらいは出したかった。
が、残念ながら手持ちはそう多くない。学生で自由になる金なんてたかが知れている。理人の下で働くようになって給料は上がったが、治療費を自分で出しているので優雅な生活とはいかない。それに、隣の御曹司が普段から利用している部屋に宿泊できるだけの金を、晶が持っているはずもなかった。
扉が開く。目の前に広がる深紅のカーペット。豪奢な廊下。部屋は一部屋しかないのか、奥に両開きの扉が見えるだけだ。
「こちらでございます」
促されても足が動かない。降りようと歩を進めた理人が、黙ったままでいる晶に気付いて後ろを振り返った。
「……やっぱ、帰るよ」
「晶?」
「俺、金ないし……帰る」
「そのようなこと、晶様がお気になさる必要はないのですよ」
「気にします」
笑顔で晶を降ろそうとする神田に、晶は一歩下がって拒んだ。
「全部おんぶに抱っこじゃ、駄目なんです。俺は、理人と対等でいたい。……友達、だから」
頑なに晶は首を横に振る。
これはきっと我儘だ。二人の善意を無駄にしているのかもしれない。もしかすると理人の兄弟たちも。
けれど、どうしても譲れない。晶は理人の傍にいたい。だったら、せめて友人であり続ける必要がある。理人は晶なんて数多くいる友の一人だろうが、晶にとって理人は特別な存在だ。
今はまだ矛盾している部分だってあるけれど、いつかちゃんと失恋ができて心から笑える日が来ると信じている。それまでは、形だけの友としてでも晶は理人の傍にいたい。傍に、いたいのだ。
エレベーターを降りかけていた理人は、俯いている晶の前に片膝をついた。
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