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「理人?」  声をかけても答えてくれない。楽しげに笑うだけ。  段々怖くなって眉根を寄せ、席を立とうとした。だが寸前で理人に腰を抱かれて押さえ込まれてしまう。 「ありがとう。僕の可愛い晶」  うっとり、赤い目元。伴う色香に驚きながら、礼を言われて一応頷く。仮初とはいえ、友人の体面は取り繕えたらしい。 「可愛い、は余計だけどな?」  僕の、というのものおかしいと思ったが、今はあえて触れなかった。ほんの少し、胸の奥がザワっとしたからだ。妙な感じだった。   「可愛いよ」 「だから」 「この髪の一本から、爪の先まで。晶は、どこまででも可愛い。……しゃぶり尽くしたいくらいだ」  体が引かない。動かない。しっかりと抱かれた腰に動揺が走る。隣で理人は確かに笑っているのに、違和感しかない。  体を寄せられ体重をかけられる。後ろにいくつもクッションがあるので痛くはないが、柔らかなクッションに体が沈んで真上に理人を見た。  もしかしなくとも押し倒されている現状に混乱する。 「でも生憎と、僕は君を友達だと思ったことは一度もない」  冷たく鼓動が脈を打つ。今、なんと言ったのか。訊き返すこともできなかった。指先が震え、見上げる美貌が歪んで見える。  去年の夏から、一年とちょっと。色々あった。強引なこともされた。彼を見る目は大きく変わってしまったけれど。だけれど、……友だと。彼はそう思ってくれていると。一片(いっぺん)も、疑ったことはなかった。  足元が崩れていく感覚。腹の底から脳髄まで冷たく凍ってしまったかのような、言葉に表し難い絶望。  やはり全部バレてしまっていたのか。今更体面を取り繕うとする晶に、彼が出した答えがこれなか。 「晶、僕はね」    ――リン  部屋の呼び鈴が、理人の台詞を遮った。  顔を上げ、不快げに理人が眉をひそめる。小さく舌を打つ理人に、彼でも舌打ちするこがあるのだと、この緊張感の中的外れなことを思った。  無視して続けようとした理人だが、あまりに呼び鈴がリンリン鳴るので苛立った態度で体を起こした。 「ここにいてね?」  恫喝めいた笑顔に、返事を迷う。頷くまで怖い笑顔で睨まれていたので、結局根負けして承諾した。それを見た理人はようやく下へ向かい、緊張の解けた晶は深く長く息を吐き出した。  遠くで、理人の驚いた声。  気になって言いつけに背き、ソファから離れる。なるべく足音を立てないよう注意を払いながら階段を下り、一階へと向かった。 「理人! 会いたかった!」  女性の声だ。声のした方を見ると、隣のリビングで知らない女の人と理人が抱き合っていた。咄嗟に物陰に隠れ、身を隠す。  体を丸め、痛いほどに鳴っている心臓に歯を食いしばった。 「優里亜さん……。いつ、日本に?」 「さっきよ。空港から直接来たの」  よくは見えなかったが、二十代の若い女性に見えた。とても綺麗な女性だ。長い髪は腰のあたりまであり、細身の体をしっかりと理人が支えている。  それを目にした瞬間、分かった気がした。理人は話があると言った。それはきっと、彼女のこと。  高い天井を仰ぎ、なんだか散々な一日苦い笑みを浮かべる。  好きな人に友達でもないと言われ、熱い抱擁を見せつけられて。  もはや自分はここに必要ない。モニター役なら彼女と一緒に泊まればいい。話があると言っていたが、上手くいっているようにしか見えない。そもそも、友人とすら思っていない男になんの相談をする気だったのか。  理人の考えていることが分からなくて、晶は静かに立ち上がった。  去ろう。ここにいるべきではない。本命が来たのなら、邪魔者は退散すべきだ。 「それで、上なの? そうなのね?」 「優里亜さん、待ってください」 「あら、どうして? いいじゃない」  弾む声が階段に近づいてくる。急なことで、思わずそこにあった背の高い観葉植物の後ろに隠れた。 「坊ちゃま! 今しがた、優里亜様が……!」  そこへ、神田が駆けつけた。  晶の前では理人のことを名前で呼んでいたが、これが本来の呼び名なのか神田は焦ったように「坊ちゃま」を繰り返す。 「神田、騒々しいわよ。私ならここ。何よ、二人して」  ふふ、と。可愛らしい笑い声とともに、二十代と思しき女性が階段を駆け上がって行った。慌てた顔で理人が後を追いかけ、それに神田が続く。  今更上に戻っても、上手く笑える自信がない。取り乱さないでいられる自信もない。祝福なんて、できない。  三人が階段を上がり切ったのを見て、晶は走り出した。部屋を出て、エレベーターホールへ向かう。キーがないので不安だったが、下へ向かう際にキーは必要ないのか問題なく動いてくれた。  フロントを駆け抜け、ホテルを出る。財布はポケットだ。コートは忘れてしまったが、帰るには問題ない。  だが、このまま何も連絡をしないわけにはいかないだろう。逃げ出したい一心で出てきてしまったが、これではあまりに非常識だ。  友達でなくとも、急にいなくなれば少しは心配するかもしれない。面倒はかけたくなかった。  電車に乗ったあたりで連絡を入れよう。早歩きで園内を進みながら、ポケットに入れてあった財布とスマートフォンを確認した。とにかく園を出ようと先を急ぐ。  そこへ、けたたましく電話の着信音が鳴った。  液晶画面を見て確認すると、理人からだった。どこにも晶がいないことに気付いて、連絡を入れてきたのか。  少しだけ出るのを躊躇したが、どうせ連絡を取るつもりだったのだし、遅いか早いかの違いだ。晶は画面をフリックし、電話に出た。 『晶ッッ』  焦りを隠さない声。切羽詰まった呼び声に、つい足を止める。  何をそんなに動揺しているのか、不思議なくらいの声量と強張った声だった。 『どこにいるんだッ?』  エレベーターが下に降りていたことに気付いたらしい。走っているのか足音が聞こえてくる。息使いも荒い。  もしかして、晶を探しているのか。何故だろう?  晶は再び歩を進めながら、口を開いた。 「俺、帰るよ」 『晶……。お願いだ。話を』 「話ってさ、優里亜さんのことだったんだろ?」 『違うっ。僕は』 「もういい。いいよ。無理は、しなくていい。……色々ごめんな。友達でもない奴のことで、迷惑かけた」  我ながら嫌味っぽいな、と思って自嘲の笑みを浮かべる。  ふと、足がもつれて転びそうになった。すぐに体勢を立て直すが、妙に足が重い。無意識に腕で額を拭い、袖に滲んだ汗の量に気が付く。  おかしい。やけに心音も速い。顔も熱く、火照っている。コートは忘れてきているのに、体がジリジリと熱い。  重い、眩暈がした。体がふらついて、今度こそその場に膝をつく。 「……?」  呼吸も徐々に浅くなり、晶は道の端に体を寄せた。 『晶? 晶ッ?』  電話の声が遠い。耳に当てているのも億劫で、一度認識してしまうと、どんどん症状が悪くなる。動揺と困惑が不安を煽り、晶はそれ以上動くこともできなくて体を丸めた。
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