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 タイミングは何度も計った。シミュレーションも完璧だ。  いつも彼がバイクを停めている駐車場。だいたいの速度。停めてある車の位置。  低く、喉が鳴る。楽しげに、震える。  見上げた空は真っ暗で、星一つない。湿った風が頬を撫で、今にも雨が降り出しそうだ。鼻孔をくすぐる水の匂い。もう少しもつかと思ったのに、小粒の雫が男の肌を濡らし始めた。  徐々に勢いが増していく中、目的の青年がアルバイト先から出てくる。  雨が降るとは思っていなかったのか、彼は慌てた様子で自身のバイクに跨りエンジンをかけた。  水滴に鈍く輝く、チタン素材の腕時計。軽く七桁後半の価値を持つそれへ真剣な眼差しを注ぎ、正確に時を刻む秒針を睨む。  雨に反射するライト。軽やかなエンジン音。  黒塗りのSUVの影で、男が顔を上げた。見つめる先の、どす黒い闇。  男は一瞬たりとも迷わなかった。濡れた地面を強く蹴り上げる。  人生史上、最低極悪の行為のため。  目の前の彼を、手中に収めるために。   (何やってんだろ、俺)  惚れた男に好きな人がいることが判明して、約一週間。  勝手に恋をして勝手に失恋したわけだが、その相手とは表向き友人同士。話があると遊園地に連れてこられ、男二人虚しく夢の国を満喫中だ。  平日なので週末ほどの賑わいはないものの、それでもやはり国内トップクラスのテーマパークなだけあってそれなりに混雑している。  (あきら)は買って貰ったポップコーンを頬張りながら、チラっと隣の男を見上げた。  佐賀美(さがみ)理人(りひと)。日本最高峰の大学に在籍する、二年生。旧佐賀美財閥の御曹司で、本人自ら起ち上げたIT会社の社長でもある。若干二十歳にして社長の椅子にある彼は、先見の目と確かな手腕で数十人の従業員を抱えている凄腕だ。それなりの大学に入って、日夜バイトに明け暮れている晶とは住む世界が違う。 「どうしたの?」  頭一つ半ほど先にある、小さな顔がこちらを向いた。優しい笑顔を浮かべて尋ねてくるので、なんでもないと首を振って食べ続ける。  理人との出会いは、正直褒められたものではない。昨年の夏、大学の入学祝で親に買って貰った原付バイクで彼とぶつかってしまったのがきっかけだ。バイト帰り、駐車場から出ようとした際の接触事故だった。  駐車していた黒塗りの車の影から、いきなり飛び出してきた理人を避けることができなかった。結果、晶は転倒して手首の骨を折った。  一方の理人は軽い打撲程度で済み大したことはなかったが、事故は事故。いくら飛び出してきたのが理人だとはいえ、前方不注意は否めない。両親とともに謝罪へ出向き、家というよりはもはや城に近い佐賀美家に血の気が引いたのを今でも覚えている。  てっきり慰謝料云々の話になると思ったのに、後日家に来るよう理人本人が言った割に事故の話が出てこない。通された部屋で豪華な食事をご馳走になり、下にも置かないおもてなしを受けた。  戸惑う両親と晶。仕方がないので、晶の父がお茶をいただきながら事故の話を切り出した。けれど理人は慰謝料も詫びも要らないと首を横に振った。それどころか骨折させてしまったことを深く詫びられ、逆に医療費を包まれてしまった。当然断ったが、理人は頑なに譲らなかった。  更に晶は、理人の会社で働いてくれと頼まれた。利き手を折ってバイトも辞めていた晶は、自分が役に立つとは思わなかったので断った。けれど理人は、綺麗な笑顔を浮かべてこちらも譲らない。とにかく頑固で、強情。梃子でも動かない。結局、晶が両親に説得されて承諾する羽目になった。  恐ろしいほどに分厚い見舞金もごり押しされ、一体どちらが被害者なのか分からないほどだった。  最初こそ気後れしていた両親も、今ではすっかり理人のファンだ。気のいい彼を常時歓迎している。理人も理人で、晶の家を訪れる際は二人への土産を消して忘れず、特に花好きの母親には豪華な花束が定番となっていた。 「晶、そろそろポップコーン仕舞おうか。荷物、この籠に入れてくれって」  順番が近くになって、二人分の荷物を同じ籠に入れる。  晶は口の中のものを咀嚼しながら、もう一度理人を盗み見た。  今や、バイト先の雇い主である彼。てっきり働いて慰謝料を払えと言われると思ったのに、バイト代はコンビニで働いていた時の三倍近い。しかも理人の車での送迎付きだ。休みの融通もつく上、テスト期間中は仕事そっちのけで理人に勉強を教えてもらっている。  仕事といっても利き手が使えないので、電話を受けたり書類の整理をしたり、理人に頼まれてお使いに行ったりとその程度だった。腕が治ってからは掃除やお茶くみなども率先しているのだけれど、人数が少ない上にフロアには専門の業者が掃除に入っているので仕事らしい仕事はない。何も仕事がない時はレポートをやっていていいと、専用のパソコンまで与えられている。  はっきり言って、好待遇の度が過ぎる。毎月こんなに貰っていいのか不安になる給料が口座に振り込まれ、何度か理人に間違っていないかと金額を確認したことがあるくらいだ。 「っ」  見ていたのがバレたのか、理人がこちらを見下ろしてきた。目が合う。焦って顔を背け、晶は口いっぱいに頬張っていたものを嚥下した。 「晶」 「……、いや。あの、さ。俺ホントに」 「晶」  笑顔なのに、この笑顔が最近とても怖い。  仕方なく、利き手を差し出す。実は、折れた腕に少し問題が残っていた。今リハビリに通っている。日常生活に支障はないのだけれど、折った時に無理をして理人の世話をあれこれ焼いたのが悪かったようで、右の薬指と小指の動きが鈍い。上手く曲がらないのだ。  理人が気にするといけなかったので、このことは伏せていた。それなのにどこで嗅ぎつけたのか、リハビリ中に彼が駆け込んで来た時は心底驚いたものだ。見たこともないような真剣な顔で、蒼白したまま土下座された。  晶は慌てて理人に駆け寄り、訓練すれば元に戻る旨を必死に説明した。中々信じようとしなかったため、傍にいた医師にも説明をお願いした。晶のリハビリを担当してくれている医師が事細かに説明すると、安心したのか理人もようやく顔を上げた。  大変だったのは、それからだ。リハビリに通っている病院にまで、理人が車で送迎するようになってしまった。リハビリ自体にも付き添い、どちらが事故の加害者か分からないくらいの献身ぶりを発揮してくれている。  その上で、これだ。
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