最後の平凡な夜

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最後の平凡な夜

 家に着いた私は、すぐに鏡の前に立ち、タンザナイトの指輪を映してみた。 嬉しさで顔がにやける。 神秘的に青紫に輝くタンザナイトを見ていると、不思議な気持ちになる。 なぜ、私はここにいるのだろう、というような壮大な問いをしてみたくなる。 母のおなかの中から二十三年前に出てきたからだからだ、と現実的な結論を付けた時、スマートフォンが鳴った。 母からだった。 「この前おばあちゃんの家に行ったんでしょ?その時ごはん食べに行ったって言ってたけど、ごちそうになったの?」 母からのメッセージはいつも私をイラつかせる。 もしごちそうになった、と返信をしたら、母が激怒するのは目に見えている。 母は、自分の考えを私にも強制する。 母の中で、誰かの世話になることは禁止されているようだった。 実際にごちそうにはなっていないが、返信するのも嫌だった。 第一に、もう大人の私に対して、そのような詮索のメッセージを送ってくること自体が、母への苦手意識を増長させた。 「ごちそうになってない。」 それだけ返した。 私は親に恵まれているとは言えないだろう。 それゆえに得たもあるのかもしれないが。 しかし、もし得たものがあったとしても、それが私の人生に目に見える形で役立っているとは思えなかった。 プラス・マイナスで考えたら、そのことによるマイナスの方が圧倒的に目につく。 まあ、考えてもどうしようもないことを考えるのはやめよう。 なんだか悲しくなってくる。 せっかくのタンザナイトの気分が台無しになった。 気分を変えるために、お風呂にでも入ろう。  夜の八時。 もう外は真っ暗である。 お風呂を終えて、夕食を作る。 裕がいるときは少し凝った料理も作るが、自分ひとりの時は簡単なものしか作らない。 多くの一人暮らし女性がそうであるように。 今日は作り置きして冷凍してあった餃子を焼き、冷蔵庫の中にあった材料をかき集めてチャーハンを作った。 テレビを見ながら、ひとり夕食を食べる。 いつも通りである。 明日は日曜日。 さて、何をして過ごそうか。 久々に女友達と遊びに行こうか。 給料も出たし。 でも今日誘って明日行くのは急である。 みんな、何かしらの用事があるだろう。 食事を終えて、指輪をまた着けてみる。 今日、雑貨屋で出会った店主の女性のことを思い出す。 不思議なものの言い方をする女性だった。 何か、意味ありげな雰囲気な人だった。 そして、彼女が話していたことを、理解することは難しかった。 「価値があるかどうか、それが良いかどうかはすべてあなたの心が決めるの。そして、心は変わるもの。今までは何とも思っていなかったものが突然意味を持ち始めたり、その逆だったりすることもあるの。だから面白いのよ。」 何度見ても指輪は神秘的で魅力的だった。 今日はこれを着けて眠ろう。 土曜日の午後九時。 こうして私はいつもより早く眠りについた。 文字通り長い夜が始まる。 そして、平凡な日常に無意識に終わりを告げていたことに、私はまだ気づいていなかった。
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