灰を呑む

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【ずっと伊織のことが好きでした。】  薄桃の便箋にそんな書き出しで始めた。  電気をつけていない薄闇の中、机の上のアロマキャンドルの光が便箋の陰影を濃くしていた。甘ったるいココナッツミルクの香りが部屋じゅうに漂う。  秋の夜長の冷気が厚いカーテンの隙間から、扉の隙間から、そして床からも染み入ってくるようだった。外からは松虫の声が聞こえる。  伊織は私の一つ下の幼馴染だった。幼稚園、小学校、中学校と一緒で、そこから進路が分かれていた。 初対面は今から二十年前の三歳の頃で、伊織が同じマンションの一つ上の階に引っ越してきたこと、当時私と私の姉が通っていた幼稚園に伊織も通うことが、伊織のお母さんがうちに挨拶をしに来た理由だった。 伊織は大人しそうな顔をした男の子だった。背は低くて、髪は天パ気味で、ㇵの字眉をしていた。 【あなたと初めて会ったのは、私が三歳の頃でした。  お母さんの足に隠れているあなたを、私も姉の後ろで隠れて見ていました。  私たちは年が一つずつ離れていたけど、うちでよく遊びましたね。  今だから言えるけれど、私ははじめ、あなたを女の子だと思っていました。】  書き直すつもりで、ボールペンではなくシャーペンを選んだ。  伊織が選んでくれたもの。白地に青くて小さな花の散る、可愛らしいデザイン。  2Bの濃いめの芯を使う。 【幼稚園の頃もそうだったけれど、小学校に上がってからも、あなたは大人しくて。  ドッジボールも苦手だし、体育の時間も上手く出来ずに泣いてばかり。  私はよくあなたを連れ出して、一緒に小屋のうさぎのお世話をしたり、花壇でお花にお水をあげたりしました。  私はあなたのことを弟のように思っていました。】  そこまで書いたとき、階下で物音がした。両親はもう寝ているだろうから、姉夫婦が帰ってきたのだろう。  私の姉は去年結婚した。相手は会社の同僚だった。  私は自宅から大学に通っていたが、姉は結婚するなり家を出て、夫と暮らし始めた。  式はお金がたまるまでしないと決め、節約しながら仲睦まじい生活を送っているようだったが、昨日から夫と共に実家に帰ってきていた。  数日は家にいるという。  静かに、けれども確実に幸せそうな姉夫婦を見ていると、私も伊織との生活を夢想した。  彼へ気持ちを伝えることができたら、どんなにいいだろう。  気持ちが溢れて狂いそうになって、私は便箋を手に取った。  その無為さを誰よりもよく知っていながら。 【中学生になってから、あなたの背がぐんと伸びて、私は驚きました。  成長痛によく悩まされていましたね。  体がひょろりと伸び、声も低くなったあなたは、全くの別人のようでした。  けれど、気弱な性格は昔のままでした。  穏やかなまなざしは小さな頃のままでした。】  階段を軽快に駆け上る音がして、部屋の扉がノックされた。  扉を開けると、廊下の照明が部屋に差し込んできた。穏やかな炎の光に慣れた目に、LEDの真っ白な光はまぶしい。 立っていたのは姉だった。ベージュのコートをまだ脱がないまま、小さく平べったい紙袋を片手に持っていた。 「おかえり」  私が言うと、姉は微笑んでただいまと言った。紙袋を差し出してくるので、両手で受け取る。 「これ買ってきたからあげるね」 「何これ」 「栞。可愛いのあったから。……にしてもいい匂いするね、キャンドル?」 「うん」  姉の視線を追うように振り向いてみると、部屋の中にはアロマキャンドルを中心に丸いグラデーションが出来上がって揺れていた。炎だけが部屋の空間を切り裂いたように明るく、別の生き物のように瞬いている。  ここから見ると、別世界のようだった。 「……あんまり根、詰めないんだよ」 「うん。ありがとう、お姉ちゃん」 「じゃ、お休み」  姉はひらりと手を振ると、きびすを返した。 「栞、ありがと」  私が声をかけると、姉はそっと振り向いて、軽くうなずいた。  私は扉を閉めると、机に戻り、引き出しに紙袋をしまった。  昔から、優しくて綺麗な姉のことを心から慕っていた。  姉はひねくれた私の身内とは思えないほどいい人で、姉を知る人々は口をそろえて「あんなお姉さんがいてうらやましい」と言った。  小さな頃の姉は、私におもちゃを譲り、お菓子を渡し、私の手を引いて遊びに連れて行ってくれた。  成長してからも、両親に自分のお古ではなく新品の服を私に買うよう働きかけたり、素敵なお店に連れて行ってくれたりした。  私は姉に色々なことを相談し、姉からも色々なことを相談された。  しかし、姉が高校を卒業して社会人になり、私が大学に行ってからは、話す機会も減った。  思えばそれくらいの頃から、姉の相談を聞くことはほとんどなくなっていた。結婚も寝耳に水の話だった。  それでも姉は変わらず、私を気にかけてくれた。 【高校は、あなたも私も、それからお姉ちゃんも別々でした。  この頃になると遊ぶことはめっきり減っていましたが、たまにお互いに話していました。  学校での悩みや、友人関係のことを相談したりしていましたね。  私はひそかにあなたとの仲が途切れるのを心配していましたが、あなたはいつまでも優しいあなたのままで、私と話すことを恥ずかしく思ったりしないような人でした。  私は今でもあなたが私の学校の学校祭に来てくれた時に、友達に「彼氏?」と聞かれて照れ臭かったのを覚えています。】  伊織は、私の伊織はもういない。宛先のない手紙を、私は書き続けている。  いつも私を認めて、頼ってくれた伊織。  恥ずかしそうに目を伏せて笑う伊織。  私なんかよりよっぽど繊細なくせに、どこか変なところで抜けていた。  そんなところも好きだった。 私はまた便箋に向き合った。 【私が何となく大学進学を決めた時、あなたは私の合格をとても喜んでくれました。  かっこいいと言って褒めてくれました。  けれど私からすれば、技術者になりたいという自分の夢を真摯に追うあなたのほうが、本当にかっこよく思えたのです。  私は昔から素直ではなくて、あなたのことをからかってばかり、けなしてばかりで、正直に話を出来たことのほうが少なかったけれど。  私はあなたを、本当にかっこいいと思っていたのです。  ずっとずっと、弟だと思い込んで生きてきたけれど、本当はずっと前から、優しくてかっこいいあなたが大好きだったのです。】  集中して書いていた私は、ノックの音に肩をびくつかせた。  姉が伝え忘れたことでもあったのだろうか。  そう思って返事もせず扉を開けると、立っていたのはなんと姉の夫である義兄だった。 「……あ、えっと、こんばんは」  義兄は慌てたように言うと、コップを差し出した。 「あの、ユイちゃんから……遅くまで何か頑張っているようだって聞いて、あのこれ、差し入れ……」  ぎこちなくはにかんでいる。ユイというのは姉の名前だ。 「…………。ありがとう」  私専用の白のコップに、カルピスが注がれていた。  この義理の兄妹という関係性に慣れていないのは、義兄も私も同じだった。 私がコップを受け取ると、義兄は会話の糸口を何か探すように視線を行ったり来たりさせた。 「いい香りだね。僕も好きだよ、このココナッツの香り」 「……うん」  私は小さくうなずく。正直、はやく姉のところに帰ってほしかった。  届くことのない恋文を書いているところなんて、知られたくない。  それに、結婚して姉と幸せそうにしている義兄と向かい合うと、私がもう伊織に想いを伝えることすらできない現実を突き付けられるようで、うまく息ができない。  私が告白したら、伊織は笑ってくれただろうか。  もう想像することすら許されない。  ずっとうつむいている私を、義兄はどう思ったのだろう。彼は誤魔化すように笑った。 「えっと、勉強、かな? 頑張るのもいいけど、ほどほどにね。体を壊しちゃいけないから」 「うん」 「じゃあ、お休み」  私は義兄がまだ部屋の前に立っているのを知りながら、扉を閉めた。 【いつまでも変わらず優しいあなたが大好きでした。  小さな頃と同じで少し気弱だけれども、あの頃よりずっとかっこよくなったあなたが大好きでした。  あなたの恥ずかしそうに笑う顔が大好きでした。  ずっと伊織のことが好きでした。】  文字が便箋の一番下まで到達すると、私はシャーペンを置いた。  鼻が慣れてしまって、ココナッツミルクの匂いが薄まっているような気がした。  キャンドルの炎を見る。まだ蝋はずいぶんと残っていた。  頭を左右に傾け、首の凝りをほぐす。  手紙はこんなものでいいだろうか。面白みのない手紙だが、かといってこれ以上何か書く気にはならない。  どうせ本人に届くことなんてないのだから。  封筒を出そうと机の引き出しを滑らせると、姉から先ほどもらったばかりの紙袋が出てきた。中を見てみると、和紙で作られた花の柄の栞が出てきた。赤い紐が付いている。  私は栞をじっと見つめてから、机の上に置く。  封筒を一枚取り出して、その隣に置く。  便箋を手に取って、半分に折ろうとした。  ふと、笑みがこぼれた。  ふ、ひゅ、ひ、ひ、ひ、ひ。  えずくように、笑い声が漏れる。  笑いながらシャーペンを再び手に取って、最後に付け加える。 【あなたを義兄などと呼びたくはな】  紙を巻き込みながら、シャーペンが歪んだ線を引いた。 芯が折れ飛ぶ。  笑いが止まらない。シャーペンを握ったまま、もう一方の手で額を押さえた。  ひ、ひ、ひ。  しばらく笑う。  本当におかしかった。滑稽だった。  二人から一言も交際について聞かされたことはなかった。  私は大学を卒業したら伊織に告白しようと思っていた。  伊織から一言も彼女の話なんて聞いたことはなかったから、てっきり彼はずっと独り身なのだと思っていた。  私は自分も伊織のように社会人になって、自立してから告白しようと思っていた。  そんな風にしてだらだらと逃げていた。  結果がこれだ。  笑いすぎて涙がこぼれ、便箋を濡らした。  いや、それは私の涎かもしれなかった。  口の端が強張り、笑みの形を作ったままで、口が馬鹿になりそうだった。  私は便箋を今度こそ二つ折りにし、封筒に丁寧に差し込むと、糊で綺麗に封をした。  ある日姉からカフェに呼び出され、行ってみると姉の隣には伊織がいた。  嫌な予感はした。  幸せそうに微笑んだ姉は、単刀直入に言った。  ――私、伊織くんと結婚することにしたの……。  私は伊織の方を見た。恥ずかしそうにうつむいて、けれども伊織も笑っている。  何と答えたか全く覚えていない。  最初は思った。私もこれから色々な出会いがあって、きっと伊織のことなんて忘れることができるだろうと。  実際この一年はそうだったのだ。どこか心が麻痺したような感覚は残りつつも、私は確かに普通に生活を送ってこれたのだ。  全ては姉が伊織と共に帰ってきたことが原因だった。  伊織はいい匂いがした。伊織の骨ばった手の甲が、丸みをおびた指先が、大きな喉仏が、長いまつ毛が、薄い唇が、垂れた眉が、首に浮き出る血管が、あたたかいまなざしが、私の心臓を完膚なきまでに抉りぬいた。  これらが全て姉のもの。  私には一片たりとも残されていない。  私の伊織はもういない。  咄嗟に姉などいなければよかったと思った。  私がひとりっ子だったなら、伊織の全てが私のものだったのに。  そして伊織がいっそ死んでいてくれればよかったのにとさえ思った。  伊織が誰かのものになったのを見ながら生きるより、死んだ伊織を想いながら生きるほうが楽だったのに。  けれどもすぐに、私には姉も伊織も必要であったことを思いだした。  私は優しく綺麗な姉のことを心から慕っていたから。  そんな姉は伊織と一緒になって幸せになれたから。  便箋を入れた封筒をアロマキャンドルの炎に近づける。  甘ったるい匂いに、紙の焼ける匂いが混ざった。  炎が封筒を、思いのほか早い勢いで舐めていく。  指を炎の舌がかすり、針が皮膚を突き破るような痛みが走った。  それでも封筒から指を離さなかった。黒い焼け滓が散らばり、持っているものもただの焦げて灰のこびりついた紙片となると、私は焼け滓を集めて紙片ごとカルピスに放り込んだ。  半透明の白い水面に燃え滓が浮き、紙片が濡れて色を変える。  カルピスに燃え滓は混じらない。沈んでいかない。ただ水面を漂う。  次に栞をつまんだ。  炎に栞を近づける。  炎が揺れ、栞の端に触れた。  私は咄嗟に腕を引いて栞を炎から遠ざける。ゆっくりと炎と栞とを見比べ、そして姉の笑顔を思った。  栞を机の上に置く。  私は何をしている?  そんなこと決まっている。  私はどうすればよかった?  そんなこと決まっている。  私はこれからどうすればいい?  そんなこと決まっている。  地獄を生きるのだ。  カルピスを一気に飲み干すと、コップを机の上に置く。  私はまだ笑っている。                    〈おわり〉
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