波乱の予感

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波乱の予感

 が、その背後でブンブンと顔を振る不動。  そうだった。わたし、矢吹と会ってはいけないし、これではまた怒られる。こんどはボロアパートでは済まないかもしれない。 「――――ね? 楽しそうでしょう? 咲子さんは猫が好きだから飼えば良いし、僕は咲子さんが楽しければいいから……そうだ! それなら学校の近くで、一軒家も良いかも」  どこまで想像しているのか知らないが、そろそろ止めなければならない。矢吹は行動力もあるから見守ってもいられない。 「あの、あのね、矢吹! わたしはここが気に入っているから、いらないの。こういう生活もしてみたかったから」 「え、こんなに汚いのに? ドアだって見たでしょう? 軽く捻っただけで取れちゃいますけど」  いや、あれ軽くだったんかい! どんだけ怪力なんだ。いや、それよりも! 本当に遠ざけないと怒られる! 「と、とにかく、ビンボーな生活も体験してみたかったの! こういう経験が、必要だと思ったから」 「……咲子さんは、いつも正しい。それが望みなら、僕も無理強いはしません。でも、せめて、僕も」  住みたいと言い出しため、わたしは内心頭を抱える。どうしよう、と不動へ目配せすれば、今にも泣きそうな頼りない顔が返って来た。 「あ、あの、矢吹は、お父様には何か言って来たのよね?」 「いえ。何も。聞く必要も無いですし。恐らく、何も教えては貰えないので、黙って抜けてここにいます」  綺麗で澄んだ二重瞼がわたしを見つめる。 「あ……えっと……そう! お姉様が矢吹を必要としていたの。だから、矢吹は今まで通り鷲見の家にいてあげて」 「それなら大丈夫です。今朝、お断りさせていただきました」 「は?」 「ええぇぇぇ!!」  わたしと不動の声が重なる。ん? 何故、不動がそんなに驚く?  不動を見れば、口をぱくぱくさせながら矢吹に近づく。 「こ、断ったんですか?」  不動の言葉に、煩わしそうな視線を向ける矢吹。 「…………ああ。大した用でもなかったし、どうせ雑用だろう」 「いや……雑用でも同じ時間を過ごせるんですよ? あの、美人でセクシーな恵美子さんと風子さんですよ? 通り過ぎただけで良い匂いさせてる二人っすよ?」  ふんふんと鼻息を荒くする不動に、わたしは頷く。外見は良いし、品があるのに妖艶な魅力もある姉達だ。虜になる者はだいたいこうなる。不動もか。  それを怪訝そうにするのが、矢吹だ。 「うるさいな。じゃあお前が行ってこいよ」 「行きたいっすよ! お呼びがかからないんっすよ!」  うわーん、と腫れた顔をそのままにいじける不動。  その様子にわたしは首を傾げる。 「矢吹は、お姉様が好きじゃないの?」  だいたいの男は、皆、不動のように姉を求める。舎弟になった者、敵対する者、同じクラスや他の組。同盟だなんだ、と何かにつけて姉に近づこうとする者ばかり。  だが、一貫して矢吹は違った。思えば、姉から話しかけることはあっても、矢吹からは見たことがない。 「どれだけ積まれてもお断りしますね。僕にだって好き嫌いくらいありますよ」  にっこりと微笑む様は何度見ても綺麗だ。この容姿だから、姉よりもレベルの高い人とも会って来たのだろう。芸能人とか。それなら納得だ。  もう見て来たレベルが高すぎて姉なんかも視界に入らないのだろう。  そう考えると、可能性が一つ。  モテる男は女に飽きるのが早い。女に飽きた男が次に行くのが同性、と聞く。つまりは男だ。 「……わたしは偏見とかないから。良いと思うよ」 「ええ。ありがとうございます。ということで、僕に予定はありませんし、ここに住みますね」 「それは……あの、どうしてもって言うなら、お父様の許可を頂いてきて。ね?」  どうなるかは知らない。だが、このままでは押し切られてしまう。断る案も無い。家もバレている。そうなれば、今のお父様の火に油。それよりは、矢吹が自分で行って……後で怒られるのは目に見えているが、今だけでもわたしが関わらない形で事なきを終えたい。いや、現実から逃げたい。 「わかりました。では、早速行ってきますね」  矢吹の楽しそうに去る背中に、わたしは覚悟を固める。嗚呼、さようなら、平穏。このアパートも明日で最後かもしれない。  確実に決まったわたしのお叱り。そして、再び罵られることを覚悟して矢吹を送った。
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