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「不動、どうしたの?」
「アネゴ~! 風呂行きやしょうって話したじゃないですか! ぜんっぜん来ないんすもん」
ふてくされたように不動は掃除されていない床に落ちていた葉を小さく蹴る。
「ご、ごめん。今から準備するからさ」
ちょっと待ってて────そう言いかけて、止まった。
振り返った先に、矢吹がいたからだ。それも、いつの間に移動してきたのか、かなり距離が近かった。
矢吹から見下げられる形となり、若干の圧を感じる。
「え!? や、矢吹さん! 来てたんすか!」
後方の不動が驚きの声を上げ、こういう組、独特の挨拶「おはようございます」と朝でもないのに元気に声を上げる。
矢吹はそれに答えることはなく、わたしから視線を離さない。
「咲子さん、僕、一生懸命考えてやっと伝える決心ついたのに……どうして聞いてくれないんです?」
「いや、あの……そ、そう、不動とお風呂行く約束してたし! 矢吹の話、長そうだったから」
不穏な空気を察知した、とは言えまい。だが、嘘は言ってない。
表面上は穏やかな矢吹だが、どこか緊張感が抜けない。
「……僕もお風呂行きますね」
何かを少し考える動作をしたあと、矢吹は満面な笑みで準備を始めた。
不気味だ。不動を徹底的に無視しているのもそうだが、なにより、何か矢吹の雰囲気が変わった気がした。
「アネゴ、風呂上がりにコーヒー牛乳マジ旨いんで、飲んでください!」
「うん」
何気ない会話をしながら三人で風呂に行ったのだが、終始、矢吹は不動を気にかけているみたいだった。
あれだけ無視していたのに、なにかと「不動は少し変わった?」や「咲子さんと何かあった?」など、探っているような……?
それもあまり気にしていなかったのだが、風呂終わりから、今度は不動の様子がおかしかった。
視線は合わせてくれないし、犬のように慕われていたと自負していたのに、それが突然なくなった。
「不動?」
「あ、は、はい! ど、どうしました?」
「どうしたの? 突然、なんだか……距離ができた、みたいな?」
「そ、そんなこと──」
他人というよりは、最初に出会った頃に戻ったと言っていい。
まあ、アネゴ等と言われ、さっきまでが異常だったと言えばそれまでだけれど。
「大丈夫ですよ、咲子さん。気のせいです。不動は前から、こんな感じですよ」
遮るようにニッコリと笑う矢吹にも、微かな違和感を感じた。それが何かと言われれば、よくわからないというのが本音。
「大丈夫っす! 咲子さんは気にしないで下さい」
「そ、そう」
矢吹が何か言ったのだろうか……不動の矢吹を見る視線に僅かに怯えが混じっている。まるで叱られて反省している犬。
誤解とはいえ、先日、あれだけ殴られたのだ。そうなるのもわかる気もするし……そういえばアネゴから咲子さん呼びに戻ってるし……うーん。
「それより咲子さん。僕、あの部屋はやっぱり汚いしセキュリティもありませんし、引っ越すべきだと思います!」
「でも、それはお父様が……」
「大丈夫です! そのことについても話しました。許可はきちんと頂きましたよ」
「頂いたって……お父様から? 本当に?」
「ええ」と爽やかな笑みを見せる矢吹。
本当かしら? あの、姉達のためなら何でもするお父様が? 自分の発言を変更するなど、あり得るかしら?
一度決めたことを?
わたしの疑問を感じ取ったのか、矢吹が優しく微笑む。
「本当ですよ、僕、物件も色々探してみたので、見てください」
その数時間後、本当にお父様から連絡を受けた。人伝だが、好きな住居へ移転しても良いとのこと。
……なんだか怖いなぁ。
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