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 ろくに眠る事もできずに朝を迎え、恐る恐る一階のリビングを覗くと、そこに夏生の姿はなかった。 「ナツくん? 今日は寄るところがあるとかでずいぶん早く家を出たわよ」 「そう……」  ホッとする気持ちと、残念な気持ちが半分ずつ。でも今は顔を合わせる勇気がない。  薫は全く味のしない朝食を取り、重い足取りで学校へ向かった。講義が始まっても、薫の頭の中を占めるのは夏生の事だ。謝れば許してくれるだろうか。それともまた疎遠になってしまうのか。  あの温厚な弟を怒らせてしまった自分に、猛烈に腹が立つ。だが今更後悔してももう遅い。  終了を告げるチャイムが鳴り、わらわらと学生たちが移動を始める。自分も移動しなければと思うのに、体を動かすのが億劫で仕方がない。だらしなく机の上に突っ伏していると、とんとんと軽く肩を叩かれた。 「……今はお前と話したくない気分だな」 「だろうね。でも相手してくれるんでしょ? なんだかんだで薫くん優しいもん」  側に立っていたのは沙織だった。薫はふうと息を吐くと、机に肘をついてその顔を見上げる。どことなく冴えない表情の彼女を見ると、やはり少し気になった。 「なんだよ、元気ないな。夏生にはちゃんと謝れたんだろう?」 「うん……。ね、ちょっと早いけどランチ行かない? 薫くんときちんと話がしたいんだ」  薫の問いには答えず、唇だけで笑ってみせる。促されるまま構内のカフェスペースに場所を移し、薫は改めて沙織と向き合った。早めのランチと言いながら、お互い頼んだのは飲み物だけだ。おそらく沙織にしても、今更薫と話し込むつもりはないのだろう。 「さっき話したくないとか言ってごめん。ただのやつ当たり」 「こっちこそごめんね。流れでつい夏生くんに話しちゃった。でも今はちょっとホッとしてるんだ。なんか一緒にいても心苦しかったから」 「……そうだな」  沙織の言葉はもっともだ。薫自身、夏生に対してずっと後ろめたさがあった。弟のくれた絵本を見る事も辛くて、今は目につかない場所に大事にしまってある。 「ねえ、薫くん。夏生くんていい人だね。私、一緒にいて自分が恥ずかしくなっちゃった」 「ああ、俺も自分が恥ずかしい、って言うかブン殴りたいよ」 「夏生くんとケンカしちゃった?」 「ケンカならまだよかったんだけどね」  そう、ケンカならまだマシだった。自分の考えなしの行動が優しい弟を傷つけ、二人の関係はいまだかつてないほどに拗れてしまった。  頬を張られた時の、あの夏生の途方に暮れたような横顔が忘れられない。薫は自分の右手を見下ろし、そしてぎゅっと固く握りしめた。 「本気の恋愛なんてめんどくさいって思ってたけど、人を好きになるのって悪くないね。ちゃんと気づいてから夏生くんと会いたかったなぁ」 「沙織……」  今の言葉で、沙織が本気で夏生に好意を寄せていたのだとわかってしまった。いつもと違う大人びた表情を見下ろし、薫はこれまで見ていた姿が、彼女のほんの一部分でしかなかった事に気づいた。 「女の子ってすごいよな。何回か会っただけであいつの良さがわかっちまうんだもん。俺なんて十年以上一緒に暮らしてるのに、あいつが今何考えてんのか全くわかんないよ」  あの時、夏生の目は薫に対して怒ってもいたけれど、欲情してもいた。ただの嫌がらせであんな事をする人間じゃない。じゃあどうしてと、昨夜から同じ問いがぐるぐると頭の中で渦を巻いている。 「前にも言ったけどさ、わかんないなら本人に聞けばいいんだよ。夏生くんならきちんと話したら答えてくれるよ。そんなの、薫くんがいちばんよく知ってるんじゃないの?」  そう言うと、沙織はどこかすっきりしたような面持ちで、運ばれてきたアイスティーに口をつけた。 「お前は逃げずに向き合えたんだもんな。偉いよ」 「ほんとに欲しいと思ったから。だから頑張れたんだよ。薫くんはいいの? 夏生くんが離れて行っちゃっても」  よくない。いいはずがない。それどころか、本当はもっと夏生に近づきたいと思っている。 「……俺、もう一回夏生に謝る。あいつの事、二度と見失いたくないんだ」 「うん。頑張って」  ただの弟に対する言葉にしては、熱が入り過ぎてしまった。だが沙織はそれについては何も言わず、小さく笑って励ましの言葉をくれた。
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