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約束の時間に現れた美和子は、一分の隙もない完璧な装いだった。
綺麗に巻いた髪。睫毛ビッシリの目力メイク。モーブピンクのワンピースに、一目でブランド物とわかるバッグ。藤江の家で早朝に鉢合わせした時の格好がオフモードなら、今日の美和子はまさしく戦闘モードと言えるだろう。あまりの変わりように、一瞬誰だかわからなかったほどだ。
「おはよう、美和子ちゃん」
「おはよー薫くん! 待たせちゃってごめんなさい」
「時間通りだよ。それより今日は特別かわいいね。ピンク、すごくよく似合ってる」
薫がにこやかに話しかけると、気合い充分の女子大生は途端に世慣れない少女のように頬を赤く染めた。
「……薫くん、相変わらず口がうまい」
「そうかな。ほんとの事しか言わないけど」
女性を見ると反射的に洋服や髪を褒めてしまうのは、体に染みついた癖のようなものだ。だが実際、美和子はかわいらしい顔立ちをしている。今日のように華やかに着飾ると、いっそう美しく、可憐に見えた。
「じゃあ行こうか」
「うん」
この三つ下の幼なじみと肩を並べて歩くのは何年ぶりだろう。時々夏生とは連れ立ってどこかに出かけているようだが、薫が美和子と約束して外で会うのは初めての事だった。ここ数年は顔を合わせた時に挨拶を交わす程度の付き合いだったので、夏生から今回の話を聞かされた時は少なからず驚いた。
「ほんとに水族館でよかったの? せっかくだし少しぐらい遠出してもいいんだよ?」
行きたい場所を訊ねたところ、美和子は近所の水族館の名前を挙げた。
「いいんです。クリオネが見たいだけだから」
クリオネと言うのは確かあれだ。海の妖精だか天使だか言われている半透明の神秘的な生物だ。
さすが女の子はかわいいものを見たがるんだなと納得していると、美和子がスマートフォンを操作して、何やら動画を呼び出し、こちらに差し出してくる。小さな液晶画面には、愛らしいクリオネの、愛らしさの欠片もない捕食シーンが映し出されていた。
「知ってます? クリオネって肉食で頭から餌に食らいつくんです。ホラ、なかなかえげつないでしょ? この光景、ぜひとも生で見てみたいんですよね!」
目を爛々と輝かせて楽しげに話す美和子に愕然としながらも、そういえばこの子はあのドギツいエロマンガの作者である可能性が高かったのだと思い出す。
「なんか肉弾戦! て感じで燃えるんですよー」
鼻息荒く熱弁をふるう美和子に「へえ」とか「そうなんだ」などと適当な相槌を打ちながら、薫は自分に課された使命を思って、気を引きしめた。今日はなんとしても例のエロマンガの謎を追求しなくてはならないのだ。クリオネの食事シーンごときに怯んでいる場合ではない。
「薫くん? どうかした?」
「……いや、大丈夫。楽しみだね」
「はい!」
訪れた地元の水族館は、日曜だというのに閑散としていた。小規模とはいえショッピングモールに併設された施設だけあって、開園当初はそこそこ賑わっていたようだが、やがて近隣のファッションビルやアミューズメントパークに人が流れてしまい、あっという間にこの有様だ。
「このうらぶれた感じがいいわー」
振り向き様に、「ね!」と同意を求められ、張りつけたよそゆきの笑顔がヒクリと引き攣る。やっぱり美和子は少し変わった感性の持ち主のようだ。
列に並ぶ事もなく入園券を二枚購入し、薄暗い館内に足を踏み入れる。するといきなり鰯の大群に迎えられ、その数の多さと堂々たる泳ぎに圧倒された。目を見張って眺めていると、隣で美和子が「ヤッバ、下剋上萌えの時代キタわ」と理解不能な言葉を呟きながら、様々な角度から鰯を観察している。言っている事はよくわからないが、どうやら水族館に来たかったというのは本当だったらしい。
小さな水族館なので、それほど珍しい魚はいない。エイの腹を下から眺め、亀の甲羅に触り、ペンギンの散歩を遠目に鑑賞したらもう見る物はない。それでも美和子が一つ一つ丁寧に蘊蓄を語ってくれたおかげで、退屈する事はなかった。最後にお目当てのクリオネを堪能し、水族館を後にした。
「捕食するとこ、見れなくて残念だったね」
ショッピングモール内にあるカフェスペースに移動し、お茶をしながら水族館の感想を語り合う。
「でも亀に触れたし、やっぱり水族館にしてよかったです。付き合ってくれてありがとうございます」
ぺこりと頭を下げられて焦ってしまった。礼を言われるような事は何もしていない。
「こちらこそどうもありがとう。美和子ちゃんのおかげで水族館の楽しみ方がわかったような気がするよ」
「いや、醍醐味はやっぱ餌やりなんです! ああ、バッカルコーン見たかったなぁ。今度夏生に付き合ってもらってリベンジしようかな」
美和子の独り言のような呟きに、薫は当初の目的を思い出した。呑気に水族館巡りを満喫している場合ではない。自分には重要な使命があったのだ。
「えっと……ちょっと個人的な質問してもいいかな? あ、答えたくなければ無理に答えなくていいから」
「なんですか、改まって」
プレゼントした水族館のパンフレット兼写真集を眺めていた美和子が、目線だけでこちらを窺う。薫の緊張が伝わったのか、手にしていた写真集を横に退けて、居住まいを正した。
「その……、夏生の事なんだけど」
「夏生?」
「ああ。美和子ちゃんは俺なんかよりずっと夏生の事を知ってると思うんだ」
「それはまあ、そうでしょうね」
あっさり肯定されて、少なからずショックを受ける。だがこれまでろくに話もしていなかったのだから、当然と言えば当然だ。
「そうなんだ。恥ずかしながら俺は夏生の事がよくわからない。だから教えて欲しい。……あいつ、何か変わった趣味とかないかな」
「ああ、服のセンスなら変わってる、って言うか終わってますよね」
美和子は我が意を得たりとでも言いたげに、うんうんと頷いている。
「いや服とかそういう外見的な事ではなくて……」
「中身も大概ですよ。夜中だろうが早朝だろうが、関係なく呼び出すし。ああ見えて結構なキチクです」
「夜中に、早朝だって?」
それは聞き捨てにできない。仮に二人が恋人同士だとしても、互いに学生の身分で度を越えた付き合い方だ。
「こっちはバイトと学校で疲れきってるってのに、溜まってるからってお構いナシに朝まで付き合わされて」
「溜まってるから、お構いナシ……?」
「次の日なんて体がきつくて使い物にならないですもん。ほんとあの絶倫マンガオタクっぷりだけはなんとかならないんですかね」
「ぜ、ぜ、ぜつりん…………」
鉄よりも硬い何かで頭をガンガン殴られたような心境だった。
まさかとは思ってはいたが、自宅に連れ込んだあげく、相手の足腰が立たなくなるまで責め苛むとは。これは本当に自分の知る、あの生真面目な弟の話なのだろうか。
「――つまり、君と夏生はやっぱり付き合ってたってことなんだね」
薫はズキズキと痛む頭を抱え、改めて尋ねる。すると美和子がなぜか慌てたように、忙しなく左右に首を振った。
「は? どっ、どうしてあたしがあんな奴と⁉」
「だって君と夏生は、夜中や早朝に足腰立たなくなるほど……、その……、してるんだろう?」
「ええ、日給一万円でもあの扱いはナイと思います」
「一万円!?」
頭痛を通り越して、頭が割れそうだ。
二人が付き合っているなら頭ごなしに反対などしない。だが、金で売り買いするような不健全な関係だとしたら、兄として、年長者として、黙認する事などできない。
「……夏生がどういうつもりなのかはわからないが、そういう事は恋人同士がするべきだ。もちろん二人とももう大人だし、割りきって付き合っていると言うなら反対はしない。でも金で売り買いする事だけは見過ごす事はできない」
「はい? 金で売り買い?」
美和子は長い睫毛を何度も瞬かせ、意味がわからないとでもいうように首を捻っている。その反応の鈍さに、薫は内心で舌を打った。
「そうだろ? 恋人でもないのに寝るなんてよくないよ。特に君は女の子なんだから、自分を安売りしちゃいけない!」
ドンと勢いよくテーブルを叩いて告げると、美和子はポカンと口を開け、それからふるふると小刻みに震え出した。もしや泣かせてしまったかと一瞬焦ったが、どうやらそうではなく、ただ呆気に取られているらしい。
「…………もしかして薫くん、なんかすっごい勘違いしてません?」
美和子が綺麗に整えられた眉を顰めて、訝しげにこちらを見据えてくる。眉間の縦皺がかなり不穏だ。
「すっごい勘違い?」
「夏生の事はもちろん嫌いじゃないけど、男として見た事は一度もないです。だって夏生ですよ? お互いのおむつ姿まで知り尽くしてるような相手に胸がドキドキしたら病気じゃないですか」
顔の前で手のひらをひらつかせながら、美和子は激しく首を横に振っている。嘘や照れ隠しのようには見えなかった。
「じゃあ君らは早朝やら夜中に部屋に閉じこもって何をしてるの?」
「それは……」
これまでこちらがたじろぐほど饒舌だった美和子が、珍しく言い淀む。やはり何か言い辛い事を隠しているらしい。
(もう一押しだ)
薫は心の褌をしめ直し、目の前の幼なじみを説き伏せる事に集中した。
「美和子ちゃん、俺は兄として夏生の事が心配なんだ。どうしてこれまでもっと気にかけてやらなかったのかと、今になって後悔してる。手遅れになる前に、もう一度あいつの事をきちんと知りたいんだ。それには君の協力が必要だ。――頼む」
うろうろと彷徨う視線を捉え、強い目で懇願する。すると美和子は、少し考え込んでから小さく息を吐いた。
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