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「……夏生にはあたしから聞いたって、絶対に言わないでくださいね」
重々しい切り出しに、薫はごくりと唾を飲み込む。ついに謎だらけの弟の秘密が明らかになるのだ。
「ああ。もちろんだよ」
力強く頷いてやると、美和子はようやく観念したらしく、人目を気にするそぶりで顔を寄せてくる。自然に薫も前のめりになり、両手を固く握りしめた。
「――実は夏生、夜中にこっそりマンガを描いてるんです」
「はっ? マ、マンガ⁉」
薫は気構えたせいで必要以上に力んだ肩をカクンと落とした。思った以上に大きな声が出てしまい、カフェの店員が一体何事かとこちらをちらちらと気にしている。薫はそれに愛想笑いを返すと、気を取り直して再び美和子と向き合った。
「美和子ちゃん、今マンガって言った?」
「ええ。製本まで自分でやって、即売会で売るんです。同人誌っていうんですけど。あたしはいつもその手伝いを頼まれてるんです」
同人誌という手作り本とその即売会については薫も聞いた事がある。真夏と真冬に開催されるというイベントに、とんでもない数の人間が集まるらしい。テレビのニュースで取り上げられているのを、完全に他人事として傍観していたが、よもや弟が参加者の一人だったとは思いもしなかった。
「売るって、素人が描いたマンガを買いたいという人がいるの?」
「夏生は薄利多売が信条だから儲けは出しません。でもそこそこ人気はあると思います。なんだかんだで毎回一千部近い在庫が全部はけてますから」
「あ、あのマンガが一千冊……」
信じられない事だらけだった。あの妄想が暴走したようなエロマンガを、真面目で寡黙な夏生が夜な夜な描き続けていたなんて。父や母が知ったら、心臓を押さえてひっくり返るかもしれない。
「あのマンガって……もしかして薫くん、あれ見ちゃった⁉ ち、ち、違うんです! あのドエロ絵を描いてるのは根暗な童貞男であって、あたしは枠線引きとかもっぱら雑用担当で――!」
泡を食って弁解を始めた美和子だったが、薫が一番気になったのはそんな事ではなかった。
「童貞って、夏生が?」
(あの顔とあの体を持っていながら?)
全く、世の女性たちの目はつくづく節穴だ。
そういう薫自身、つい最近まで夏生の事を童貞と決めつけていた。だが近くで見たらやっぱり男前だし、話をすれば気さくでいい男だと思う。気後れせずに沙織と話している姿を眺めながら、思い込みで童貞と決めつけてすまんと心の中で詫びたくらいだったのだ。
「あんな半引きこもり生活してたら出会いなんてあるわけないよ。夏生って基本的に自分には興味ないんだもん」
いつの間にか敬語を引っ込めた美和子が、運ばれてきたワッフルにチョコレートソースをかけながらつまらなそうに言った。
「自分に興味がない? じゃあ一体何に興味があるっていうの?」
「さあ、知りません。でも夏生の事だから人に喜んでもらえる事が一番重要なんじゃない? ホラ、夏生ってドMだから」
「夏生がドM……」
薫は目の前に置かれたアイスコーヒーの氷が、カランと音を立てて溶けていく様を呆然と眺めた。美和子から告げられた弟の秘密はどれもこれも意外過ぎて、気持ちがついていかない。
あの本を見つけた時から、もしかしたらという疑念は当然あった。だがどうしても信じられなかった。夏生ほど、いやらしい事や下世話な事が似合わない男はいない、本気でそう思っていたのだ。
「――薫くん、もしかして夏生の事気持ち悪くなっちゃった?」
美和子に問われて、薫は今一度義弟について考えてみる。あのマンガの作者が夏生だったと知っても、嫌悪感は一向に湧いてこない。童貞と聞いても、もったいないと思いこそすれ、それ自体を否定的に感じる事はなかった。
「いや、そんな風には微塵も思わないな」
「……そう。それならいいんです」
美和子はホッとしたとでも言うように、小さく息を吐いた。それだけで美和子がまるで自分の事のように夏生を案じているのがわかる。
「でも少し心配かな。マンガが悪いとは言わないけど、現実の女の子にも目を向けて欲しいっていうか」
グラスに刺さったストローをマドラー代わりにくるくる回す。弟の事で取り乱す自分は、今更ながらに情けな過ぎる。誤魔化すようにヘラリと笑うと、美和子もようやく安堵したのか、甘ったるい香りの漂うチョコまみれのワッフルを、勢いよく頬張り始めた。
「あー、それは大丈夫じゃないかな。あいつ別にリアルな女の子を好きになれないわけじゃないし」
「なんだ、そうなのか? でもどうして美和子ちゃんがそれを知ってるの?」
「あたし、夏生に告られた事があるんで」
「……え?」
「まあ中学生ん時だけど。あ、これも内緒ですよ」
「あ、ああ。うん……」
なぜか、心臓にガツンときた。
今日聞いた何もかも衝撃的過ぎて、何がショックなのかわからない。でも今の美和子の言葉が最も薫を動揺させた事だけは間違いがなかった。
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