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カフェスペースで話をした後は、美和子と適当にモール内をひやかし、日が落ちる前に自宅前で別れた。別れ際、美和子から丁寧なお礼を言われてしまい、こちらの方こそと薫は慌てて頭を下げた。
「ただいま――」
ドアを開けるなり、玄関にきちんと揃えて置かれているスニーカーを見つけ、思わず眉を顰める。腕時計を確認すると、時刻は午後五時を過ぎたところだ。沙織には晩ご飯まで付き合ってくれるよう頼んでおいたのに、どうやら弟は既に帰宅してしまっているらしい。
(何やってんだ、沙織のヤツ……)
いつもはリビングか自室に直行するのだが、今日ばかりは気になって真っ直ぐ夏生の部屋に向かった。
二度ノックしてドアを開けると、夏生はベッドの上に寝そべって本を読んでいた。驚いた事に、彼は眼鏡をかけている。夏生が家で眼鏡をかけている姿を見た事がなかったので、薫は一番聞きたかった沙織との話よりも先に「お前、眼鏡なんてかけてたの?」という、間の抜けた質問をしてしまった。
「ああ。本読んだり、パソコン触ったりする時だけだけど。兄貴は今帰ったのか? みわに無茶な事させられたり言われたりしなかったか?」
「へ? ああ、水族館行ってお茶して今帰ってきた。無茶な事なんて言われてないし、久々に話ができて楽しかったよ――って、俺の事はどうでもいい。お前の話だよ、夏生」
「俺?」
夏生は本を枕元に置くと、よいしょと体を起こしてベッドに座り直した。服装は家を出た時と同じで、ボタンダウンシャツにロールアップさせたパンツを身に着けている。爽やかなサックスブルーのシャツは、端整で男らしい顔立ちの夏生にとてもよく似合っていた。その上見慣れない眼鏡をかけているせいか、知らない男と向き合ってるような錯覚に陥った。
「えーっと、晩メシ食ってこなかったのかなと思って。山之江は美味い飯屋のリサーチもしたいって言ってたからさ」
咄嗟の思いつきで出まかせを言う。都合のいい嘘なら吐き慣れているはずなのに、無様にへどもどしてしまった。
「メシも何も、あの人来なかったから」
「えっ!?」
「待ち合わせ場所で待ってたけど来ないし、なんか用事でもできたのかなと思って、適当にぶらついて帰ってきた」
「来ないしって……、沙織には連絡してみたのか?」
「あんま知らないヒトに電話すんのとかちょっと気が引けるし、メール送ったけど返ってこないから、じゃあまあいいかと思って」
つまり完全にすっぽかされたという事だ。
無理矢理約束を取りつけたあげく待ちぼうけを食わせ、せっかくの休日を台なしにさせてしまったのだ。その上あろう事か、沙織は謝罪メールの一つも送っていないらしい。
薫は今更ながらに青くなり、その場でガバリと頭を下げた。
「ごめん! ほんっとーに、ごめん!」
「なんで兄貴が謝んの?」
「だって、俺も一緒になって頼んじゃったし。お前は元々乗り気じゃなかったのに、俺の顔を立ててくれたんだろ? それなのに……マジでごめんな」
寡黙な弟がほぼ初対面の相手の案内役を引き受けてくれたのは、間違いなく自分のためだ。断れば薫が困るだろうと思ったからこそ引き受けてくれたのだ。兄思いの優しい弟。それなのに自分ときたら、勝手に弟の部屋を家探しした上に、憶測だけでこのままでは間違った道を進むんじゃないかと思い込んだ。更に傲慢にも、なんとかして現実の女性に目を向けさせてやらなければなどと思っていたのだ。心配していると言いながら、夏生の意思を軽んじ、見下していたのと同じだ。
「ごめん、夏生――」
胸に湧き上がる後悔や懺悔の感情と一緒に、涙まで溢れそうになる。下唇を嚙む事でそれを堪えると、喉の奥がおかしな具合に引き攣れた。シールの跡が残る引き出しが目に入り、いっそういたたまれない気持ちになる。
「ねえ兄貴。俺、今日、パンダ公園に行ったよ」
「え?」
反射的に顔を上げると、いつもと同じ穏やかな表情で、夏生がこちらを見つめていた。
「パ、パンダ公園?」
「そう、駅からちょっと歩いたとこの。昔兄貴とよく遊んだから覚えてるだろ?」
もちろん覚えている。パンダの形をした遊具のある近所の公園は、薫と友人たちの気に入りの遊び場だった。小学生の頃は、小さな夏生を連れてよく遊びに行ったものだ。
「ああ、覚えてるよ。でもなんであんな場所に行ったんだ?」
「特に理由はないけど、懐かしいなと思って。あとさ、本屋に寄ったらこれが売ってたんだ。兄貴、好きだったよな」
夏生はそう言って紙袋から一冊の絵本を取り出し、こちらに差し出した。受け取ってページをめくると、昔好きだったアニメキャラクターのイラストが、絵本ならではの素朴な色合いで描かれていた。
「うわ、懐かしいな。でもなんか記憶の中の絵と雰囲気が違うような気がする」
「それは最近になってリライトされたやつみたいなんだ。クレヨンっぽい塗りがなんかいいよな。まあ実際はデジタル加工なんだろうけど」
「へえ! すごいな、今見てもテンション上がるもんなんだな」
「昔好きだったもんって、結局一生好きなままなんじゃない? 特にちっさい頃に受けた衝撃ってずっと残ってたりするしさ」
「……うん。そうなのかも」
ページを捲る度、一つ、また一つと、幼い頃の記憶が呼び起こされる。夏休みのわくわくするような朝だったり、毛布にくるまって暖を取った寒い夜だったり。それは思わず唇を綻ばせてしまうような、他愛なくも幸福な記憶ばかりだった。そしてその全ての時間を、他ならぬ夏生と共有してきたのだ。
「それ、兄貴への土産。大学生に絵本もないだろと思ったけど、服とかの礼に」
「……ありがとう」
唇だけで微笑む夏生の顔は、大人びていて男っぽい。だがその心根は、初めて出会った時に感じた、滲んだ絵の具のような繊細さを今も持ち続けている。
やっぱりこいついい男だなと思った瞬間、なぜか頬と耳の先が熱を持った。同時に足元が酔った時のようにふわふわしてくる。
「礼を言わなきゃいけないのは俺の方だよ。みわに付き合ってくれてありがとうな」
夏生に礼を言われた瞬間、胸の内で膨らんだ柔らかなものが、ぱちんと音を立てて弾けた。
この感覚には覚えがある。
それが夏生に告白されたと美和子から聞かされた時に感じた、あのなんとも言えない焦燥と同じだと気づき、薫は夏生から貰った絵本を手にしたまま、言葉を失くして立ち尽くしてしまった。
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