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「なあ、これは何に使うの?」
「それは雲型定規。曲線を描く時に使うやつ」
「じゃあこれは?」
「トーンナイフ。そんな風にぞんざいに持つと危ない。指を切ったら大変だから、兄貴は触らないでくれ」
六畳間の真ん中に置かれた小さなローテーブルに座り、夏生はひたすら手を動かしていた。いつもと何も変わらない作業風景。一つ違うのは、向かい側に幼なじみではなく、兄の薫が座っているという事だ。
幼なじみの美和子から「この際だから言っちゃうけど、あんたがエロマンガ描いてる事、薫くんにバレてるよ」と聞かされた時は、描き上がったばかりの原稿用紙の上に口の中のコーヒーをぶちまけてしまいそうになった。
あんな物を描いていると知られたら、薫に軽蔑されてしまう。兄弟の縁を切るなんて言われたらどうしようとおたついていると、口の悪い幼なじみに「デカイ図体して肝小さっ!」と心底呆れられた。
よくよく聞けば、薫は心配こそすれ、その事が夏生を嫌いになる理由にはならないと言ってくれていたらしく、兄の寛容さに感謝せずにはいられなかった。
そしてその翌日。深夜に一人で黙々と作業に没頭していると、兄が突然部屋にやって来た。まさか夜更けに兄が自分の部屋に来るなんて思いもしなかったので、ローテーブルの上はもちろん、床の上もベッドの上も、描き上がったばかりのエロ原稿で溢れかえっていた。
部屋に一歩踏み入れた途端絶句した兄は、しばらくの沈黙の後、何故か「美和子ちゃんは?」と訊ねた。バイトを理由に手伝いを断られたと告げると、何を思ったのか「なら俺が手伝ってやるよ」と言い出したのだ。もちろん断ったが、薫は引き下がらず、仕方なくこうして二人で向かい合って作業する羽目になってしまった。
とはいえ、純度百パーセントの素人の薫に、いきなり生原稿を預けられるほどの勇気はない。まずは線引きの練習をと思い、定規とペンを渡し、広告の裏にひたすら線を引いてもらっているのだが、途中で飽きてしまうらしくすぐに脱線してしまう。
「今時ってさ、こういう面倒な作業はパソコンでササッとできちゃうんじゃないの?」
「デジタルでも描くけど、本にする分はできるだけアナログで描くようにしてるんだ。そんな事より、練習はどうなってるんだ? 真っ直ぐ引けるようになったのか?」
「なんかすぐびよーんってインクが伸びてきちゃうんだけど。紙も汚れるし」
「定規は傾斜のある方を下に向けて使う。それに一回一回拭き取らないから紙が汚れるんだ」
現役国立大学生にマンガ描きのいろはを説きながら、夏生は手を止める事なく、ひたすらペンを走らせていた。これまでの自分たちを思うと、この状況があまりにあり得なくて少し笑える。
「なあ、そっちは手伝わせてくれないの? 美和子ちゃんはやってるんだろう?」
「最初はあいつにもチラシで練習してもらったよ。一時間後には線引きをマスターしてベタ塗りやってたけど」
「へえ。すごいな、美和子ちゃん」
退屈だ、つまらないと不平不満を漏らしながらも、美和子はメキメキと上達した。元から器用だった事もあり、今では夏生より迷いのない線を引く。ただ美和子に手伝いを頼むと高くつくのがネックだった。
「今回はまだ時間的に余裕あるし、慣れない兄貴に手伝わせるほどでもないんだけど……」
前回地獄をみた夏生は、全ての工程を前倒しで進めるよう心がけていたので、今はそれほど切羽つまっているわけではない。それに薫が目の前にいると何かと気が散ってしまい、手伝いどころか若干作業妨害になっている。
「まあそう言うなよ。お! ちょっと綺麗に引けた! どう?」
「ああ、ほんとだ――」
丁寧に引かれた直線を得意げに見せる兄の姿に、思わず口元が緩む。まるで褒めて欲しいと大人にねだる子供だ。
不意に顔を上げると、こちらを見ていた薫と目が合い、パッと視線を逸らされてしまった。心なしか耳の先が赤い。
「どうかしたのか?」
「……別に。ていうかさ、現実の女の子はこんな風に体操服を捲って上目遣いなんてしてくれないぞ」
薫はカラーイラスト用の下絵を指差し、ありえないだろこんなのとブツブツ言っている。それは青空の下、校庭をバックにかごめが体操服を捲り上げ、挑発的な視線を投げかけてくるという微エロイラストだった。男のロマン、濡れた衣服の透け感と、下乳チラリを盛り込んだ、自分でもわりと気に入りのイラストだ。
「現実を知らないからこそ描けるんだよ。創作なんだから夢見たっていいだろ」
「この主人公の皇かごめって、やっぱ夏生の好みのタイプなの? こう、胸はデカいのに童顔。しかも超エロい、みたいな」
「別に。ただその方が読んでくれる人が喜ぶから。俺自身は胸の大きさなんて気にならないし、大人っぽい涼しげな顔立ちの方が好きだ。エロいかどうかは、まあ俺も男だしその方が嬉しいとは思うけど」
かごめに特定のモデルはいない。しいて言うなら、夏生なりに萌えの要素をつめ込んでみたプロトタイプ、それがかごめだった。
「へー。それにしてもあの夏生がなあ。無表情で下着のレースとか描いてるんだもんな」
夏生は今、極細の丸ペンを使って、かごめの下着のディテールを描き込んでいる。ちなみにマンガの中の彼女は、サディスティックな一面を持ち合わせる親友に着ていた服を隠され、右往左往しているところだ。
「この後かごめちゃんはどうなるんだ?」
「服を探してるうちに修行の時間に遅れて、玉手箱和尚にお仕置きされる」
「お仕置きってどんな?」
枠線引きの練習をそっちのけで、薫が身を乗り出してくる。完全に面白がっているようだが、おそらくこの後の展開を聞いたら無邪気に笑ってなどいられないだろう。
「……その先は自主規制」
「えー! ズルイぞ、今更隠すなよ」
「兄貴、絶対ヒくし」
「俺は大抵の事は経験済みの成人男子だぞ。エロになら充分耐性できてるって!」
このままではいつまでもズルイを連発されそうだと踏んだ夏生は、大きく一つ嘆息すると、この後かごめに降りかかる災難を薫に語って聞かせた。案の定、薫は盛大に引いてしまい、やっぱり言うんじゃなかったと激しく後悔した。
「……童貞の妄想力ってスゲえな。俺なんか全然ひよっこだわ」
「兄貴がひよっこなら、俺はまだ精子だ」
「言えてる!」
ほんの冗談のつもりだったのだが、薫は腹を抱えて笑っている。いつも毅然として、感情を露にしたりしない兄の珍しい一面を見て、夏生の方が面食らう。貴重なシーンを見逃すまいと目を凝らして見つめていると、薫はバツが悪そうにそっぽを向いてしまった。
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