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これは一体なんだろう。
薫は数年ぶりに足を踏み入れた弟の部屋で、呆然と立ち尽くしていた。
弟が部屋を空けるタイミング、つまり学校へ行っている平日の九時から十六時に狙いを定めて、薫は夏生の部屋を探索する事にした。たまたま午後が休講になり、母がカルチャースクールに出かけている今日こそ、まさに千載一遇のチャンスだ。
念のため玄関に施錠し、無意味に足音を忍ばせて、そっと室内に侵入する。夏生の部屋に入るなんて一体いつぶりだろう。中学生の時には既に話をしなくなっていたので、かれこれ七、八年ぶりといったところか。
「……お邪魔します」
意味を成さない断りを入れて、宇宙人の住処へと侵入する。
一見、よくある普通の学生の部屋だ。入口付近に昔懐かしい学習机があり、その隣には木製のベッドが置かれている。入って左手にある書棚は、辞書や実用書がずらりと並んでいた。納められている書籍は、いかにもA型らしい几帳面さで、版型ごとに綺麗に揃えられている。一冊手に取ってみると、それは『陽気なオージーと巡る寺社仏閣百選』という、よくわからないタイトルのガイド本だった。
「あいつの学校って、電子系のとこだよな……?」
記憶違いでなければ、確かそうだったはずだ。しかし勉強机の上にどっかりと載っかっているデスクトップパソコン以外、この部屋に電子専門学校生の形跡はない。キーボードの横に黒いタブレット状の機器が置いてあるが、コンピューターの周辺機材に明るくない薫には、何に使う物かわからなかった。すっきりと片づいたローテーブルの上にはなぜか写経のテキストがあり、薫はいっそう首を傾げる。
サイドテーブルに書棚、そしてベッドの下まで、年頃の男子が他人に見られたくない物を隠したくなるスポットを重点的に探る。しかし怪しげな物どころか、綿埃一つ出てこない。薫は弟の完璧な整理整頓術に舌を巻いた。
「ここまでしたくはなかったが、やむを得ないな――」
ゴクリと唾を呑み込んでから、机の上に鎮座するパソコンに手を伸ばした。電源ボタンを入れ、OSが立ち上がるのを緊張の面持ちで待つ。見慣れたロゴマークが現れ、ディスプレイ上にアイコンが表示されると、薫はまずインターネットの検索履歴をチェックした。
一週間分を遡って一つ一つ確認したが、そのほとんどが映像や美術関連のハウツーサイトで、怪しいサイトを覗いた形跡は見つけられなかった。
次にブックマークを開いてみる。二十歳の学生らしく、テーマパークのホームページや、音源購入サイト等が登録されていて、こちらも健全そのものだ。アニメ系のサイトなんかも登録しているようだが、商売や犯罪の匂いはしないのでこれも問題はないだろう。
「なんだよ、普通じゃないか」
意を決して探偵の真似事などしてみたものの、わかったのは弟が綺麗好きである事と、なぜか寺社仏閣に興味があるらしいという事だけだった。結局あの意味深な視線の理由はわからずじまいだ。
「アホらし……」
薫は肩から力を抜き、レトロなガス圧式の椅子に腰を下ろす。ノスタルジックな学習机といい、この椅子といい、夏生のこの部屋はまるで小学生から時が止まったような空間だ。
親が再婚してこの家に越して来た時に、自分も同じ学習机と椅子を与えられたはずだが、薫の部屋にそれらは既にない。代わりにバイト代を貯めて買ったイタリア製のガラステーブルとデザイン性の高いチェスト、それに大学の合格祝いに両親に買ってもらった黒一色のシンプルなベッドだけが置いてある。兄弟でもこんなに違うものかと、いっそ感心するほど間逆の部屋だ。
深く腰かけるとギシギシと軋む椅子。子供用にデザインされた、角の丸いシステムデスク。机の引き出しにシールを無理やり剥がした跡を見つけて、薫は思わず頬を緩ませた。
昔はよく互いの部屋を行き来し、夜遅くまで色んな話をしたものだ。好きな本、最近流行りのゲーム、今日はどんな事をして、どんな一日だったのか。それこそ飽きる事なく延々と語り合った。数年の時を経て二人の関係はずいぶん変わってしまったが、この場所には当時と同じ空気が流れているような気がした。
薫は唇に笑みを乗せたまま、シールの跡をそっと指でなぞる。これを貼ったのは幼い頃の自分だ。少し抜けたところのある弟が大事な物を失くしたりしないように、宝箱のイラストが描かれたシールを貼ってやったのだ。以後、素直で生真面目な弟は、薫の言う事をきいて、この場所に宝物をしまうようになった。だからそこを覗こうと思ったのは、純粋に懐かしさからだった。まさか中からこんな物が出てくるとは思いもしなかったのだ。
薫は引き出しの中から現れた薄手の冊子を、しげしげと眺める。
厚さ五ミリほどのそれには、セーラー服っぽい衣服を纏った少女がなぜか戦車に跨っているイラストが描かれていて、右側に縦書きで『戦々☆恐々~皇かごめの武者修行~』と、やけに丸っこい字体で書かれている。
メタリックでド派手な彩色もさることながら、何より目を引くのはこの真ん中に描かれた少女だ。
顔のほとんどを目が占めている少女は、座っているがおそらく九頭身はあるだろう。足首とウエストが異様に細く、豊かな胸がやたらに存在を主張している。腿を曝して戦車の砲身に跨る姿は、無邪気なようでいてどこか卑猥だ。
「なんだ、これは――」
恐る恐るページをめくってみたものの、いきなり現れたカラーイラストに、薫は腰を抜かしそうになった。
ページを開いた瞬間、スクール水着姿の少女が眼前に迫ってくる。それは真っ白な胸元にフォーカスをあてた構図のイラストで、少女の胸元には「1年B組 皇かごめ」と手書きっぽい文字で書かれていた。
更にページをめくると、桃色の遊び紙を挟んで、表紙の少女が物憂げにこちらを見ているモノクロイラストが現れた。次のページからはコマが割ってあって、少女が友人らしき人物と楽しげに話をしているところから物語が始まっている。
どうやらこの物語の主人公は「皇かごめ」といい、尼僧を目指している女子高生という設定らしい。表紙で着ていたセーラー服っぽい服は、よく見ると上着の前部分が着物の合わせのようになっていて、和風テイストのセーラー服という奇怪な服装だった。
肝心の内容は、ドジでおっちょこちょいなかごめが、失敗を重ねながらも、親友の郁ちゃんや師匠である玉手箱和尚の手を借り、僧侶として、人として、そして女として成長していくというストーリーだ。
そう書くと、週刊少年マンガ誌にでも掲載されていそうに聞こえるが、その中身はとても未成年には読ませられない代物だった。
ホルモンが好物だという生臭坊主の玉手箱和尚は、修行と称してかごめにいやらしいいたずらを仕掛けるし、密かにかごめに想いを寄せているらしい郁ちゃんは、かごめを助ける素振りで彼女の身体を好きなだけ触り倒している。何かと危険に曝されるかごめは、服や下着を破かれたり、時に異星人の触手に凌辱されたりしていた。
つまりは十八禁、エログロ成年マンガだ。
「なんだってこんな物が夏生の部屋に……?」
それも宝物を入れるための引き出しに。
脳裏に焼きついたバラエティに富んだエロ表現の数々を、無邪気だった頃の夏生の姿を瞼に浮かべる事でどうにかリセットする。
きっとこれは夏生の所有物ではない。学校の友人に無理矢理押しつけられ、返しそびれた物をたまたま自分が発見してしまったのだろう。きっとうそうだ、そうに違いない。そうじゃないと困る。
冊子を持つ手が、ワナワナと震える。するとその隙間から、懊悩する兄を更に悩ませる物がひらりと床に舞った。落ちた紙切れを拾い上げて見てみると、それは印刷所が夏生宛に発行した、領収書兼明細書だった。そこには「八月某日、七百冊納品」と書かれており、なぜか荷物の届け先はお隣の清水宅になっていた。
「ま、まさかこのエロマンガはお隣の美和子ちゃんが……?」
美和子が描いた物を、夏生が一冊譲り受けたのだろうか。しかしそれだと、領収書の宛名が夏生になっていた事の説明がつかない。
薫はひとまず自分を落ち着かせようと、もう一度椅子に深く腰かけた。机に両肘をつき、組んだ手に額を乗せる。机の上には混乱の原因となったエログロマンガと、夏生の名が記された領収書。それらを横眼でチラリと見遣り、薫は深くて長い溜息をついた。
この際これが誰の物であるかはどうでもいい。この冊子が、世事に疎いはずの弟の机の引き出しから出てきた事が一番の問題なのだ。
夏生と話をしなくては。これ以上今更腹を割って話すのも面倒だなどと言って、問題を先延ばしにするわけにはいかない。
この時、ここ最近の妙な視線な事など、薫の頭からは綺麗さっぱり消え失せていた。そんな事よりも、夏生がおかしな道に進んでしまうのではないかと、そればかりが気になって仕方がない。
「くそ、なんなんだよ、一体……!」
懐かしい、弟の匂いのするこの部屋で、薫はただひたすら頭を抱えた。
この日の夜、気に入りのベッドで薫は一睡もできなかった。
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